初めて頂いたメール |
■メールをご紹介する前に この内容はサイトを開設して間もない頃、「ちかぴぃのアニメ版ベルサイユのばら研究工房」について頂いた初めてのお便りです。 当時、原作とアニメ版は別物!と割り切ろうとしていたところ、このお便りを頂いて私は原作とアニメはどこかがつながっているような気がして、原作オスカルに対してこれまで以上に親近感を持つことができました。 アニメ版を語らなきゃ!と躍起になっていたんですが、言われてみればそんなにムキにならなくていいじゃないかと気が付き、肩の力が抜けました。(^^) そう言うわけで私にとって目からウロコのお便りを、M様に無理をお願いしてサイトにアップさせていただきました。 |
■■■お便りのご紹介■■■ はじめまして。Mともうします。 ちかぴぃさんの「アニメ研究工房」読ませていただきました。 目からうろこ、でした。 私ははっきり言いまして原作支持派(そんなことばあるのかな)です。 だけどアニメも宝塚もやっぱり好きでした。アニメのアンドレが死ぬシーンはいつ見ても泣いてしまいます。でも、何か違う。こんなこと当たり前ですが、許せないな、と思えていたのも事実です。 特にアニメのオスカルはオスカルではないんでは、というくらいそのキャラクターに違和感がありました。ちかぴぃさんのおっしゃるように全く別物としてとらえることができなかったのです。 そして、ちかぴぃさんのを読んで・・・ ここで、私の得た結論はちかぴぃさんのおっしゃることと少し違ってアニメのオスカルも原作と同じ心を持ったオスカルだった、というものでした。 ただ、少しアニメのオスカルはかたくなで素直になれなかったんだなあ。 彼女をそんな風にとらえることはこれまでぜんぜんできなかった。 「切り捨てたい自分の中の女としての気持ちを求められオスカルは動揺している」 この言葉が私が思っていたアニメのオスカルの嫌いな部分のその振る舞いのわけを端的に表してくださって、すごく救われました。だってアンドレがかわいそすぎたんですもん。 ちかぴぃさんのおかげで一歩アニメのオスカルに近づけたような気がします。 オスカルがフェルゼンに思いをよせたわけ、それから彼女が男ととして生きようとするあまり女を切り捨てようとしている心など、私が原作を読んでそう感じていたこととあんまり同じでびっくりしました。 私は、オスカルはアンドレをずっと愛していた、と思っているのです。が、彼女が気づこうと思えばいつでも気づくことのできたアンドレのじぶんに向けられた愛情を知らんぷりしていたのは、男としていきるためには排斥せざるをえなかったからだと思うんですね。 彼も自分を愛していて、自分も彼を愛していたらそれは男と女になってしまいますもんね。 ただ原作のオスカルは彼の告白からあと、自分は女であるということを認めていって最後の方では女であるが故の喜びと悲しみを心も体も感じることができた、だけ幸せだったと思います。 アニメのほうはその辺が、これからだったのに・・・という点で、心残りが大きいなあ。 それから、まとめのところで少し違う意見を述べさせてください。 「崇高な理念」と「人の命の重み」は言葉でかくと相反するもののようだけどオスカルにとっては「人の命の重み」が彼女を「崇高な理念」に駆り立てたと思うんです。アニメのオスカルには「理念」は前面にないけど、心の中では理想もあったと思う・・・ 私にとって、アニメと原作を全く切り離して考えることはやっぱり無理なようです。 ただ、アニメが今までよりずっと好きになったし、また見ていろいろ考えてみたいな、と思っています。 なんか、本当はもっと書きたいことがあったような気がするのですが、この辺にしておきます。 1999年1月20日 |
■■■お返事■■■ Mさま どうもご感想を頂いてありがとうございました。 とっても嬉しいです。えーと、どこからお返事させてもらったらいいのやら、嬉しくておろおろ。 私もアニメについて、これまでの批判・評価という物について色々と見てきました。 そして、自分が大人になって「共感して」見たアニメと、学生時代に原作との違いに「腹を立てて」見たアニメと、二つの感情を体験し、今回、こうやってアニメを評価しつつ原作支持の方がどうしてもアニメを認めたくない気持ち、わからないでもないのです。ただ、私は原作とアニメを別の物として見ただけだと思います。 アンドレの死の場面ひとつにとっても確かに、色々な解釈があると聞いています。 こういう話があります・・・・・ 「犬死にはいやだ」と原作支持派がいうと「あれでいい。アンドレはオスカルの弾よけじゃない」とアニメ派がいう。 ・・・これが冷静な場での「互いに向上し合う目的の」話であればいいのですが、ひとつ間違えれば感情論。相手の解釈を真っ向から否定してしまうことになる。 本当に難しいのは作品に対する解釈ではなく、「人間関係」、もしくは「言い回し」かも知れないと思います。 今回、色々とアニメについて語ったのですが、実際、これによって全ての人にアニメはこーんなに良い作品なんだよ、と誇示するつもりはありません。 表題の通り、少しでもアニメを「楽しむ」きっかけになればというのが基本です。 ベルばらという作品を愛する人たちにとって、もちろん、原作が好きな方なら原作について、自分の中のベルばらとは何かを、私のアニメ解説と比較してもらい、新たな発見があったらいいなと思っています。 あっ、それからまとめの中で書いたことですが、Mさんのおっしゃることとそんなに違わないと思います。 言葉にすると「人の命の重み」も「崇高な理念」も確かに相対するんですが、これは思考ではなく「行動について」と解釈して下さればいいかと思います。 ・・・こう言うと、言葉って抽象的でインチキくさいですね・・・ この二つの相対するものの根本は・・・ちょっと強調が足りなかったかも知れないですが「愛情の表現に変わりはない」と思っています。 つまり、人が好きだから、どうにかして人の世を良くしたい・・・そんな気持ちがあってこそ「人の命の重み」や「崇高な理念」に向かってがんばってしまう。 人間に対して無関心な人はそもそもがんばれないと思います。 結果は不完全(討ち死に?)かも知れないけれど、「人が好きだからこそ」この両極端の行動に行ってしまった二人のオスカル。何か拍手を送りたいようで、無念です。 だから原作のオスカルを今でも好きな気持ちは、彼女の思想や言葉の次元ではなく、「人が・この世界が好きだった」という彼女のハートがあったからだと思います。 私も結果的に二人のオスカルは根本では同じハートを持っていた・・・ただ行動が違っていた、と思います。 しかし、原作に関してはこんなささやかな部分ではなく、もっと華々しい部分がオスカルらしいという思いこみがあり、今回のお便りであらためて原作オスカルの人間的な部分に感動してしまい、私の方こそ目からウロコです。 (・・・中にはオスカルはそんなんじゃないと言われる方もあるかも知れません。当然、反対意見でもかまいません。それによってその方のオスカル像がより鮮明になるのなら、ものすごく前向きだと思います。) 自分のためにならないことに一生懸命になっちゃってオスカルは二人ともバカ・・・(怒らないで下さいね、愛情を込めて言っています)・・・言いたかったのはこのことかな?? 解釈はひとりひとり違うし、違うからこそ面白いと思います。 原作もアニメも宝塚も実写版も、確かに全然ちがうけど、どこかに共通点や反対点を探したりして、批判ではない形でベルばらを楽しむ方法はまだまだあると思うんです。 (そうか、ベルばらは「一粒で何度もおいしい」物語だったのか!!) 解釈も取りようでどんどん良くなる。そういう方向で今後も「楽しむベルばら」をやっていけたらと考えています。 1999年1月21日 |
■コメント/なーかる M様、私の勝手なお願いを快く了承して下さってありがとうございました。アップさせて下さいとお願いしてから色々有り、こんなに遅くなってしまいました。 だけど初めてメールほど感動したものはありません。 5年も過ぎてしまいましたが、どうしてもアップしたかったので掲載させていただきました。 (元文章はメールですので、主文のみアップしています。) ※注:私、なーかるの発言に「アニメはこーんなに良い作品なんだよ、と誇示するつもりはありません」などとありますが、その後もこれだけくどくど語っている以上、「誇示」はしていないもののコツコツと「ヨイショ」をしているのはほぼ間違いありません。(^^) 2004年1月21日 |