アニメなベルばら対談 その1

もーみんさんのご紹介

幣サイトを開設して間もない頃、かれこれ5年ほど前に「アニメベルばら研究工房」の感想を頂いたことをきっかけにメールにて真剣勝負のトークを始めてしまいました。

初対面である「はじめてメール」からいきなり「作品を好きになるとはどういうことか?」というオタッキーでディープな話題に足を踏み入れてしまい、ベルばらとは何か?オスカルの死とは何か?などなど色々と語っていただきました。

知り合った頃からのメールのやりとりを掲載しているので、もーみんさんが色々と解説についてヨイショして下さっていることも、今となっては…とってもこそばゆい感じがするのですが、話の流れとしてそのままにしておきました。(^^;)

時はミレニアムの直前で世の中は2000年問題に揺れていた頃、世の中やパソコンがどーにかなってしまうという噂も振り切って、こんな中身の濃い〜〜〜お話をする機会が持てたことは非常に嬉しかったです。


対談期間1999.9.26.〜1999.12.29.〜2000.11.



■対談のスタート■

■アニメベルばらを大好きな気持ち・・・もーみん談
もーみん・・私はアニメから入った人間です。原作をタイトルくらいしか知らずに、何となくアニメを見始めて、忘れもしない28話※で(笑)頭を鈍器でぶん殴られたような衝撃を受け、一気にはまりました。
ここで初めて原作を読んだことになります。
そして、すぐ気付きました。「原作とアニメは別物なんだ」…。周りの原作ベルばらを知っている人(ファンかどうかは分かりません)からのアニメに対する反応も芳しくなく、結局、私はこの「アニメベルばらを大好きな気持ち」を自分の中にとどめておくことにしました。

何ページも日記を綴ったり、放映時の音声を録音して台詞を書き起こしてみたり、なんだかいろいろなことを(無意味に)やっていた気がします。でも、やらずにはおれないほど、好きでした(もちろん今も大好きです)。本当は、誰かアニメを好きと言ってくれる人と話したかったんです。「どんなに好きか」「どのように好きか」…。けれど、私の耳や目から入ってくるのは、原作とどう違うか、どの点が劣っているかといったことばかりでした。

 私は原作が嫌いなわけではありません。むしろ、好きな漫画ですし、後になって、フランス革命についての様々な本を読むにつけ、どんどん、「すばらしい作品だ」と思うようになりました。ただ、どうしてものめり込むことに躊躇してしまうのです。
原作について、もっと深く知りたいと思うと、どうしても「原作からみたアニメの矛盾点」を見てしまうことになるからです。原作は原作、アニメはアニメ、と思っていても、「原作は絶対」という、私自身のなかにある大前提のようなものがのしかかってきて、やはり「アニメベルばら」は「ベルばら」じゃないのかな、と悲しくなったりもしました。アニメを好きな気持ちは確かに「ここ」にあるのに…。

 好きな作品を賞賛しようとすると、その他を批判しがちになる、ということをずっと身を持って感じてきました。自分もやりそうになるし、人のを見たこともあります。
でも、人のを見るのは辛い…。たとえ、自分が好きなものが賞賛されていたとしても、心が痛くなります。私が小心者なだけかも知れませんが…。批判に対して、反論するのも水掛け論のようで不毛ですし、なにより「好き」という気持ちをそんな負の感情で表すのはとても悲しいことだと思います。そして多分、私自身、語りはじめると、そうなってしまいそうな気がして、とても怖かったんです。

 なーかるさんの文章を読んで、私の体の中を何かが激しく巡りながら、きれいに整理されていくような気がしました。「これを私は見たかったんだ。」そう思ったんです。「アニメベルばらの世界」というものが、原作とは別の場所に確かに「存在」して、その世界の中で、アニメのオスカルや、アンドレが「生きて」いた、と思うことができました。それは、アニメを初めて観た時に確かに感じていたのに、いろいろな思いに惑わされて、心の中に散り散りになっていたものでした。そして、放映から20年が経った今でも、変わらずに彼らが存在したと思えることがとても嬉しいのです。

 ようやく私も原作と向き合うことができそうです。原作にのめり込んでも、アニメを嫌いにならずにいられるような気がします。本当に、今さらですけど。


※第28話「アンドレ青いレモン」
■歯がゆい思い・・・なーかる談
なーかる・・色々とご感想をいただきありがとうございました。私もあの時の感動を共感していただけてとても嬉しいです。

アニメは原作に比べて難しい作品だと思います。
感動したはずなのに それを誰かに伝えることができない。
そんな歯がゆい思いもありました。
ただ偶然にも私がアニメにはまったとき、知り合ったのがやはりアニメをこよなく愛する、ファンペーパー編集者の方だったんです。
最初は「いい作品だった」だけで どう語ればよいのか、あるいは原作オンリーのファンの人たちにどう言えばアニメを楽しんでもらえるのか、本当に手探りでした。

話ごとにセリフを書き出したり、果てしない対話をしたりするうちにその方が「ではペーパーに少しずつアニメについて連載してみては?」と発案され、去年一年(1998年)をかけて誌面をお借りして連載したのがこの研究工房の元です。

最初の放映時は私もアニメをどうしても好きになれず、大人になってみてからたまたま見た総集編で感動しました。
でも本当に、ファンの世界では「原作から見たアニメの矛盾点」ばかり。私が知りたい情報は全然ありませんでした。
あとはもーみんさんが言われるとおりです。
目には目をでは虚しすぎる、かといって自分がいいと思った物を認めて欲しい・・・。

私も原作とアニメは全く別物だと思います。
(一部の方はそれを言っても、頭ではわかっているが認められないと言われます)
だからアニメで再燃してから、再び原作も好きになったのに、理不尽なアニメ批判を見て、原作が好きであることに疲れてしまった時期もありました。
アニメ批判がなければ、原作も楽しめるのにと思いました。

なぜかと言うと、「原作から見たアニメの矛盾点」を聞くと私は逆に「アニメから見た原作の矛盾点」に気が付いてしまったからです。
こじつけとも取れるアニメ批判、それをそっくりそのまま原作に対して行うことは簡単です。でも作品である原作にも罪はない。
むしろ子供時代に読んだ大好きな物語をそのまま大事にしたいのです。
・・・難しいのはファンのあり方、つき合い方だと痛感しました。

原作は確かにいい作品だと思います。
好きになっていただいていいと思います。
それほど アニメを愛されているもーみんさんなら、原作とアニメは別の作品、原作のオスカルとアニメのオスカルは別人、と割り切ってご覧になれると思います。
そしてそれぞれの相違点や共通点を見つける楽しみも始まると思います。
原作のオスカルは多感な時に知ったとても印象深いキャラクターでした。

でも大人になって、今、女性として共感できるのはアニメのオスカルです。
アンドレを後ろに従えてはいませんが、二人がお互いに尊敬しあっているさまはもう感動モノです。これだけ信頼しあっている男女の恋愛をあんな昔のお子さま向け時間のアニメ番組でよくやっていたモノだと感心します。
原作のようにハデなセリフこそないけれど、愛情を表現するのにハデも地味も関係ないと。

それからすでにお気づきのようですが、研究工房の中には数多くのアニメ批判に対する意見・・・というか、どうかんがえても善意とは思えないこれまでの解釈に対して私なりに愛情のある解釈を書き込みました。

批判はそれはそれで良いと思うんです。アニメが嫌いなことを本分とする方がいらっしゃることも当然です。
ひとつ共感を持てないのはただ批判を繰り返すだけでその根拠は語らなくても当たり前という風潮でした。
批判なら感情的やこじつけではない、なるほどと、うなる理由があれば私も新たな発見として嬉しいのですがまだそういうものは(私の狭い視野の中では)見たことがありません。

ただ、問題はアニメに対して普通の感情を持っていた人たちが理不尽なアニメ批判を見て、感化されてしまうことが残念なのです。
なら、私にできることは本当に愛情を込めたアニメ解説を書くしかない、それが作品に対するファンとしての愛情表現だと思います。

■非常に幸運な出会い・・・もーみん談
もーみん・・同人やネットで不特定多数の人に、自らの表現を公開するということは、非常に勇気のいる行為ではないかと感じます。それでも、前向きにアニメを紹介しようというなーかるさんの強さとその愛の深さには、とても感激しています。

 なーかるさんの解説を読んでからというもの、私も原作とアニメビデオを部屋の奥から引っぱり出してずっぽりひたっています。
 アニメから入った者として、原作を読んで一番に思うのは「もっと早く出会いたかった」ということです。連載時に毎週ドキドキしながら読めていたら、もっとのめり込めたのに…どうしようもないことなんですが、妙に悔しくなります。原作の表面的なものはともかく、内に込められた想いは、まだなかなか測り知れないのですが、ぼちぼち理解できたらなあ、と思っています。

 反対に、アニメベルばらには非常に幸運な出会いをしたのだとつくづく思います。放映当時、私はアニメのオスカルを、子供心に非常にかっこいい女性だな、と憧れたものです。腕がたつのももちろんですが、理詰めで物事を考えることができる、男性と対等に議論ができるというのがとても新鮮で、魅力的に見えたのだと思います。それでいて、決して完璧な人間ではないということがドラマの中から伝わってきて、妙に心が騒いだりしました。今でも、彼女は、私にとって、とても魅力的な女性です。

むしろ、昔より明確に人間として、女性として、尊敬できる存在になっている気がします。本当に、この作品に出会うことができて、アニメのオスカルに出会うことができて、幸せです。

■どこか人間くさい・・・なーかる談
なーかる・・原作を最近見て思ったのは当時の池田さんが激しく燃えていたような感じがしました。
ファンの間からでも色々なシーンで批判とか疑問とか出ているようですが、それ以上に魅力的なのはオスカルのどこか人間くさい所かなぁ・・・と思いました。
アニメは、あれだけ理性的な人間が動乱に(自分から)巻き込まれて行って、戦わざるを得なかった憤りのようなものを感じています。

■人生投げたくなりました・・・もーみん談
もーみん・・昨夜、アニメ38〜40話※を一気に見たら、人生投げたくなりました…(泣)。
ほんとに、なーかるさんが研究工房で書かれていることはもっともだと思います。
そういえば私も、最終回放映後しばらくの間、オスカルとアンドレがあの戦いを生き残ってアラスあたりでひっそりと暮らす、なんて妄想をめぐらせていましたっけ。(今も懲りずにめぐらせてます…笑)

※38〜40話:最終話のあたり
■しばらく立ち直れない・・・なーかる談
なーかる・・あの最終回を見たらしばらく立ち直れなくて何ヶ月かは見返したくないというご意見を聞いたことがあります。
私も長い間見ていません・・・落ち込むので・・・。
あのラストは何度見てもやりきれずラストシーンを変えてしまいたいと何度も思いました。

■第1話:心が慰められます・・・もーみん談
もーみん・・アニメは、10/10に1話を観ました。偶然でしたが、20周年…。1話は前半の中では、一番好きな回です。前半で唯一、オスカル自身が描かれているような気がするからでしょうか。最終回を見た後で、この1話に戻るとけっこう心が慰められます。
「これ、アランに見せてあげたいなあ」、とか面白がれるので(笑)。…じゃなくて、オスカルとアンドレが、たとえ恋人同士じゃないにしても、二人で一緒に、心を通わしつつ過ごしてきたことが実感できるからかもしれません。後半だと、30〜32話※あたりをよく観るのも、二人の触れ合いが好きだからなんでしょうね。あのあたり、画面に描かれていないところで、二人で過ごした時間がたくさんあったであろうと信じたいです…。

※30話「お前は光、俺は影」31話「兵営に咲くリラの花」32話「嵐のプレリュード」

■オスカルの原作にはない側面・・・なーかる談
なーかる・・メールって便利なもので 距離に関係なく情報のやり取りができて本当に便利ですね。
最近、人づてにアニメの放映開始20周年と聞き驚いています。そんなに前の作品だとは意外というか、20年経って、見る側が大人になっているにもかかわらず今でも感動できるのが嬉しいというか不思議です。

第1話は気合いが入った出来だと思いました。
あのままなら革命なんて起きないような感じもしていたのにベルばらってベルばら故にみんな死んでしまうんですね・・・
せめてアニメだけでもタイトルを変えてもいいから二人を生かして欲しいと密かに思っています。

それからルイ15世がなくなる回も結構好きです。
デュバリー夫人がいさぎよくてオスカルの原作にはない側面なんかも描いてあったような気がします。

■「ベルばら」の名に縛られた作品・・・もーみん談
もーみん・・本当にインターネットって凄いですよね。もし、ネットがなければ、知らないでいたことがたくさんあったのだなあ、と思うと不思議な気がします。…いい時代に生まれたと感謝しています。

ベルばらは、最近、原作とアニメは親子関係に近いのかな、と思っています。親がなくては子は生まれない、でも、子供が親と同じ思想を持ち、同じ道を歩むとは限らない…。アニメが最終回を迎えた時、涙もでない程悲しかったのですが、「原作がこうなのだから仕方ない」と、無理やり納得したのを覚えています。

ベルばらであるが故に、こういう結末になったとすれば、「ベルばら」の名に縛られた作品だったのかもしれません。でも、このアニメが「ベルばら」でないなら、こんなに恵まれた環境で制作できなかったのだろうな、とも今となっては思います。むしろ、いろいろな意味で「ベルばら」に縛られつつも、原作とは異なった主張の一作品として成立したことがこのアニメの凄いとこなのかなあ、と思ってみたり…。少なくとも、「親の七光り」的な作品ではなかったと思うのです。

考えてみれば、原作には「史実」という縛りがあったのですね。それにしても、リアルタイムで原作を読んでいた方々がオスカルやアンドレの死を見た時の衝撃はどんなだったのでしょうか。原作で予習(?)して、アニメの最終回に臨んだ私などの比ではないのでしょうね。

■「原作通りではない」と怒っていました・・・なーかる談
なーかる・・もーみんさんの言われるとおり、原作あってのアニメであっても原作通りという束縛がやはり私にもジレンマでした。
でも原作への敬意があったからこそあれだけ質の高い水準のアニメになったとも言えるので痛し痒しです。

私のリアルタイムのアニメの最終回の感想はお恥ずかしいやら・・・・・・・
「原作通りではない」と怒っていました。
原作のようにかっこよく死ななかったことそれだけが納得行かずアニメでのオスカルの死の意味までは気が回りませんでした。
原作のオスカルの死を再現して欲しいだけだったんです。
本当にもったいない話です。
今ならわかります。
アニメは原作とは違うけれどもやっぱしものすごく強い女性を描いてあると。
 
でも今になってやっと評価できたからこそかつての自分が思っていたアニメ批判なども盛り込んで解説できたので それはそれで良かったのかもと思います。

■「押し倒し」・・演出で生きたシーン・・・もーみん談
もーみん・・まず一番に考えたのは、アニメは「オスカルとアンドレを対等に描くこと」をまずなによりも優先させていたのかな、ということです。アンドレを、ただオスカルに惚れているだけじゃない、男として、人間として、誰が見てもオスカルに相応しい存在とすることにスタッフは心を砕いたのかな、と。実際、貴族の令嬢と使用人の恋なんて、昔から定番のネタですよね。

もしかして、見る人によっては、オスカルとアンドレも「近くにいたから(てっとりばやく)一緒になった」と思うかもしれない。元々ベルばらファン(多分ほとんど女性)であればそんなこと思わないのは当たり前だけど、不特定多数(きっと男性もいる)が見るアニメでは、それなりの説得力が必要だったのかも。その「アニメにおける大前提」により犠牲になってしまっのがフェルゼンなのかもしれないですね。

ところで、あのフェルゼンにオスカルが惚れたのがいや、というのは私も同感です。
フェルゼンでなかったとしてもそうなんですが、なんか釈然としないというか、あんなにアンドレと心を通わしていながら…。ただ、女としての自分は誰も求めてないのだと、彼女が思い込んでしまったが故に、アンドレの自分への想いが「異性愛」とは気づけなかったし、気づきたくなかったのかな、とは思います。28話※で彼女はいい勉強をしたのかもしれないですね。

身を持って、「男と女の愛」を思い知らされたわけだから。ところで、例の押し倒しシーン、10何年か前、ビデオが出た時にコマ送りしたことがあったんですが(爆笑)、動作の一つ一つがていねいにリアルに描かれているな、と感じました。放映当時11、2歳だった私は、このシーンに衝撃を受けてアニメベルばらにハマったわけですが(笑)、今見ると、決してセクシャルなだけでなく、演出で活きたシーンだったな、という思いが先にたちます。

話がかなりそれました。で、フェルゼンですが、結局オスカルが卒業すべき「初恋の人」だったのかな、というのが私の印象です。「青い」のはアンドレじゃなくオスカルだったのかも(笑)。そういう意味では、あってよかった恋心だとは思います。さっきの話じゃないですが、いきなりアンドレとくっつくよりはオスカルも女として深みが出るかもしれないし。とはいいつつ、25話とか28話は〜、アンドレが可哀相。
全く恋する乙女は残酷だ…。

※25話「片恋のメヌエット」、28話「アンドレ青いレモン」
(メールの行き違いにより、もーみんさん連続談話)
もーみん・・アニメの最終回に関しては、そりゃあ原作ファンの方は怒るだろうなあ、と思います。
特にアントワネットとフェルゼンのファンの人は、オスカルが死んだ時、「似てない絵をえんえん流してないで、とっとと先に進め!」と思ったに違いない…。ただ、あくまでオスカル1人が主役と割り切るなら、あの方法は必然であって、たとえ、彼女の死をあっさり流したとしても、アントワネットは活躍できなかったと思います。

オスカルがバスティーユが陥ちるのを見ることなく死んだのは、実は放映当時は、あまり深く考えていなかったような…(浅はか)。子供な私は、ただオスカルがいなくなってしまったのが悲しくて、アランと同じ目でその後を見てました。かえっていきなり5年後でよかったかな、そのまま殺伐とした革命の経過を辿られるよりは、青い空と海が写って少しは心が休まったかな、でもこれってアニメのスタッフの思うつぼ?(笑)。

でも、確かに私も、アニメのスタッフは原作に敬意を表して、だからこそあそこまでアレンジしたのだと思っています。原作の連載からアニメの放映まで7年くらい?時代も変わるし、ファンの目は肥えるし、生半可な覚悟でアニメ化はできなかったと思います。それでなくても少女マンガのアニメ化は難しいのに。今では、いろいろあったけど破綻なく完結できたことは幸運だったのかな、と感じています。

私も、アニメ放映当時は何に関しても深く考えていませんでした。ただ、無性に惹かれる、という本能的な理由で、アニメベルばらを見て、泣いたり笑ったり。そして、そのまま大切な想い出になるはずだったんですが、ビデオが出た時、買わずにはおれず、見たら再びハマってしまった…。多分いろいろ考えはじめたのはその頃です。その過程も終え、もうこれで終わったろうと思っていたんですが…(苦笑)。

オスカルが、しぶとく「フェルゼン、フェルゼン」と想い続けたのを笑えないかもしれない、私(一緒にするなよ、人と作品を…)。でも、衛兵隊時代のオスカルの年齢に近づいたせいか、今、ビデオを見ると、放映当時ともビデオ発売当時とも違う視点になっていることに気がつきます。同世代としてみてもやはり魅力的なオスカル、そのことに驚いて、今さら躍起になって自分にとってのアニメベルばらについて考えたくなったのかもしれません。

■私なんてミーハーだから・・・なーかる談
なーかる・・もーみんさんのご意見、その通りだと思います。
というか 本当にアニメにはまった人の話を聞くとみんな同じ所で感動しているんです。
それを思うと 「やはり仲間はいたんだ」と思い、嬉しいです。
最初、アニメは異端児扱い・・・という話を聞いて日本の中には姉と友人と3人しかアニメファンはいないんじゃないかと話していた時期もありました。
私なんてミーハーだから原作もアニメも宝塚も本当言うとみーんな和気あいあいで楽しみたいんですがベルばらファンみんながみんなそういうわけにはいかないみたいです。

頬傷男クンが「お優しい女隊長さん」・・・もーみん談
もーみん・・ネットでいろんなベルばらサイトを回っていると、ほんとにベルばらという作品が様々な形で作り上げられ、そして受け取られているんだな、と感じます。それだけ力のある作品なのだと思うと単純に嬉しく、いい作品に出会えた、という実感がわきます。

私も、基本的にミーハーなので、いろんなベルばらをシンプルに楽しみたいなぁ、と思います。でも、けっこう知らないんですよ、宝塚とか。昔、テレビで中継したのを1回見たきりで、それももう忘れてしまっているし。そういえば、実写映画もテレビでやった時、30分見て挫折した気が・・。今思うと、もったいないことをしました。せめて全部見ろよ、わたし。やっぱ昔は弱っちかったですね、心が。「これ以外は認められない」みたいな妙な信念(実は思い込み)があって。また、宝塚とか中継してくれないかなぁ、今なら楽しく見れると思うんです、きっと。

作品の中に入り込むのは、快感もあるけれど、辛いことにも目を背けられないキツさも伴うのではと思います。ときには、キャラクターと同調して感情が振り切れたり、作品としてどう考えても納得できない矛盾に気がついてしまったり・・

まず、一番に感じたのは、「アニメは原作とこれ程までに違うのか」ということでした。もう、何を今さら、と言う感じですけど。原作に込められた思想や、読者の想いの強さは、原作と真正面から向き合ってさえいない私には、別の次元の話の様です。
それ程までに凄まじい情熱で描かれ、ファンに愛された「ベルサイユのばら」という作品、そのカリスマ性には、何を持って立ち向かってもかなわない、と思いました。
当時、どんなにかファンはオスカルに思いを馳せたことだろう、そう考えると、アニメが批判されるのもわかる気がします(それが、理屈が通らないものなら悲しいですが)。アニメしか知らない人間は、気づかぬうちに原作ファンを傷つける言動をしているのかもしれない・・・原作が、アニメが、と言う以前に考えなくてはいけないことなのかも、と思います。

と、書いて、これからアニメベルばらについて云々、と言うのはとってもかっこ悪い気がするのですが、結局、私はアニメのことしか書けないので(原作について語る資格はないので)アニメについて、いきます。

何より、考えるのはやはりオスカルのことです。今回、ビデオを見て衛兵隊時代のオスカルがとても身近に感じました。職業を持つ女性として、現代でも通用しそうな程自然にふるまっているなあ、と。何のかんの言っても立場が上だったり、ということはあるけれど、「組織」の中で 浮きもせず、押さえ付けられもせずに「存在」できた彼女に学ぶべきことは多いかもしれないですね。

なーかるさんのおっしゃる通り、結局は人間の資質の問題のような気がしますが。あと、アニメでは、ブイエ将軍がジャルジェ将軍と親友、という設定になっていますが、結果的にこれも非常に活きているな、と思います。どんなに優秀でも 男性社会の中にたった1人の女性というだけでかなりのハンデ、それを補うための有利な条件は多い方がいいですし。もちろん、彼女自身は自分のためにそれを利用するつもりはなかったでしょうが(ラサールのためには使ってるけど)。

ところで、放映当時から疑問だったことがひとつ。31話で例の頬傷男クンが「お優しい女隊長さん」と言ってますけど、「お優しい」ってどこからきたんでしょう?ラサールに銃を都合したからかなぁ、それとも単なる嫌み?(笑) 
当時の私は「お美しい」の方がイイのにな、などとのんびり思っていたのですが、今となっては 彼女をそう描きたいという制作側の意思表示だったのかな、と考えたりしています。
(実際この後、冷静な判断の結果とはいえ、「撃つな!」と叫んでいるし。)

優しさ、と言えば、なーかるさんが解説の中で何度か触れていたので気づいたのですが、アニメのオスカルって、そんなにもキツい、冷たい、と言われていたのですね。
確かに表情を読みにくい人だけど、私は一度もそう感じたことはなかったので驚きました。19話放映時、私はほとんどシャルロットに同調して観ていたのですが(何せ彼女と年齢が近かった)、噴水にひとりたたずむ彼女をオスカルが迎えにくるところは、嬉しかったものです。オスカルは、「警備隊長」として精一杯の誠意を見せていたと今でも思います。変に期待させるようなことは言わないし。本当の優しさってそういうものじゃないのかな、と思ってみたり。どうでもいいけど、ド・ギーシュ公爵は怖かった・・・。

なんか、色気のない話ばかりなので、オスカルとアンドレについて。元々、28話でハマッた人間なので、放映当時から29話以降を二人の恋愛ものとして観ることができたと思います。かぶりつきで観てたおかげで、当時子供だったにもかかわらず、ほんっとうに地味な二人の触れ合いをしっかり捉えることができたのは幸運でした。でも、元々大仰なラブシーンは苦手かもしれないです。かえって醒めてしまうというか、観ている方が照れてしまうというか。そういえば、37話の螢なシチュエーションは不評との話も聞きますけど、う〜ん、別にイイじゃん、二人が良ければ、と私は思うんですが・・・。


31話 兵営に咲くリラの花
19話 さよなら、妹よ!
28話 アンドレ青いレモン
29話 歩き始めた人形
37話 熱き誓いの夜に

■一気に行くところまで行ってしまいそうな緊張感・・・なーかる談
なーかる・・多分ベルばらを受け取る側(ファン)の感じ方は みんな違うと思います。
共感する意見や反論やらが ごちゃまぜになって出てきてその結果、自分なりの受け取り方が見えてくる・・・というのがいいなぁと。

宝塚は近いせいもあって、テレビ中継をよく見ました。姉は公演を見に行っていましたが今は人気が高すぎてチケットを手に入れられない状態です。
宝塚も原作と違うと言われたらそれまでですが楽しいミュージカルだと思うので、今でもテーマ曲のCDを聞いたりしています。

解説はだいたい一年かけて(準備期間を入れたらもっとかも?)書いていったので、途中で大きな岩盤に何度もぶつかり中断のおそれは多分にありました。
で、書いていって、もしアニメのアラが出てきたらそこでファンをやめようと、決めていたんですが最後まで書いた後、やはり自分が感動したことは安っぽいお涙ちょうだいのドラマではなかったと自信がもてました。

あんな壮絶な話を楽しく語るのは無理があるのでしょうがいいところをもっとたくさんの人に味わってもらいたいなあと思っています。
今は仕事が混んできて、とうていあれだけのボリュームの文章はまとめられないので、本当にいいときに書いたようです。
そういえば 校正は会社帰りの電車の中でした。はづかしー。
書き始めたときは結論まで言葉にできていなくてなんて向こう見ずなスタートだったことか・・・。

原作のカリスマ性は連載当時から子供心に感じる物がありました。
思い入れが強すぎて、大人になった今も、オスカルという人物像が心の中心にあり、追い出したくてもできない・・・という風な話も聞きます。
私はオスカルは好きですが、多分自分なりの解釈で受け止めた人物像だろうし、自分が思う「理想のオスカル像」について語ったりするのが楽しみなのでそういう人たちからすればフトドキ者かも知れません。

原作好きの人の中には「私はアニメも好き」という言葉だけで拒絶反応を示す場合もあるそうです。
これって傷つけるという次元ではないのですが、なんだか途方に暮れるっていうか原作とアニメのファンが両方楽しめる接点がないものかときどき考えます。

「おやさしい隊長さん」ってそういえば私もアニメのオスカルは「やさしい」という先入観があるのかすんなり受け入れていました。
原作だったら「キツーイ隊長さん」だったのかなぁ?
それこそ失礼かも?

アニメのオスカルがキツイと(何度も書いてましたっけ?)
書いたのはアニメ批判への反論もこめてあります。

アンドレが袋叩きにあったとき、介抱しなかったので冷たい。
何を考えているかわからない。
とかいう通説があるので、違う意見を出してみたかったんです。
実際、彼女の行動を見ていたら優しい面が多いんですが原作ほど言葉やセリフになっていないのでわかりにくいのでしょうか。
ただ、言葉やモノローグにしないとオスカルの気持ちは理解できないのか・・・???
と考えると、愛情があれば必死で理解しようとするだろうしキライだったら深く考えずに批判に走るのかも知れません。

私も衛兵隊のあたりはどう見ても恋愛物だと思います。
人様のベルばらページの書き込みで「面と向かって愛しているとも言えない真面目な二人だからこそ何かがきっかけで一気に行くところまで行ってしまいそうな緊張感がアニメにはある。
それをハラハラしながら見るのがアニメの楽しみ」という風な事を書いたことがあるんですが、今でもそう思っています。
 
■アニメベルばら:オスカルという1人の女性の成長記・・・もーみん談
もーみん・・原作と違うとかは、別にこだわらないです。
原作は原作者のものだし、他のメディアには、それなりの見せかたがあると思うので。
制作者が原作に惚れ込んで作ってくれれば、想いのこもったものになるとは思います。
それが伝われば、割と満足かな。完成度は別として。

ファンの心も様々ですね。
好き、という気持ちは確かに色々な表現の仕方があると思います。思う気持ちは自由だから、多分誰にもそれぞれの評価なんてできないし、すべきじゃないんでしょうけど、やっぱり人に迷惑はかけたくないなぁ。気をつけねば。(そして、考えすぎて、何も行動できない私・・・)

原作も読んでいます。なーかるさんの原作への想いに触れてから、すんなりと原作世界に入り込めるようになりました。アニメファンとしての原作コンプレックスからも抜け、ようやく、シンプルに楽しめるようになった感じです。

原作とアニメを両立するには、けっこうパワーがいるかもしれないですね。
目指すところがかなり違いますし。そのこと自体はかまわないのですが、アニメファンだと宣言するのに勇気がいるっていうのは、悲しいです。
矛盾点があるのはお互い様だと思います。人が作ったものに完全なものなどないのが当たり前だし。自分が好きなものを、そうまでして守りたい気持ちもわからないではないんですが、何か、寂しいものを感じることがあります。

アニメについては、今更ながら凄い作品だったんだなぁ、と思います。後半の脚本の練り込みたるや相当なものだったろうし、あの細やかな演出に作画をするのも大変だったろうなあ。
アニメの後半は、かなり割り切って原作や史実のいろんな部分をすっぱりと切ってしまっているので、賛否は別れて当然と考えています。

切られた部分を大切にしていた人が、アニメを拒否するのは当たり前ですよね。私は、たまたまアニメのスタッフの価値観に共鳴できた人間のようです。多分スタッフは、原作や史実に忠実であることよりも、作品として人間ドラマを描くことを選んだのではないかな、そう思います。
そしてそれは、決して原作に対する侮辱などではなく、むしろ敬意を表したものであり、表現方法の一つの提示だったのだと私も信じています。

アニメベルばらは、オスカル・フランソワという1人の女性の成長の物語だったのだな、と今は思います。
アニメ後半に入ってから特に、観ていて非常に不安定な感覚があったのですが、それは、主役であるオスカルの意識が常に変わり続けていたからかもしれません。人間であれば、当然のこと。でも、テレビの前にいる者にとっては、常に順序だててみるわけでなし、時々ぽっと抜けたりすると、次にはなんだかわからなくなってる主役って言うのは、つかみ所がなかったのかも。

彼女は、あまりにも人間だったと思います。これほど視聴者を意識しないで行動する主役もいないのではないでしょうか。彼女が意識し、誠実であろうとしたのは、「視聴者」ではなく、「自分自身の目の前にいる人」だったのでしょうね。
のめり込んで観だすと、時々物語の中に入りたくなります。視聴者としてでなく、オスカルと同じ空気を吸う者として、彼女に触れたかったと思います。そして、できれば彼女を助けたかったなぁ、と。

もし、彼女がアニメ「ベルサイユのばら」という作品の主人公でなければ、きっとこれほど壮絶な人生は歩まなかったろうと、私も思います。でも、その代わりに私達が彼女の存在を知ることもなかったんでしょう。
そう考えると、いろいろな想いが交錯して混乱します。でも、これだけは、はっきり言える。私は、アニメのオスカルに出会えてとても幸せだったんです。

■ポッキリ折れてしまった、という喪失感・・・なーかる
なーかる・・原作が好きな方の中にはアニメ嫌いの理由として「原作の世界が壊れる」というのをよくききます。
そんなにキライなら無視したらいいのに・・・と思うのですがアニメを必死で嫌おうとしているようで不思議です。

アニメを最後まで見ていると、脱力してしまう事が多いのですがやはり物語がこれから・・・という時にポッキリ折れてしまった、という喪失感がかなり大きいと思います。
多分、アニメでは原作オスカルのらしさという部分、勇壮でかっこよくて華麗で派手(その他色々)で、というものはなりをひそめて、普通の人としての生き方そのものが主題として語られていたと思うんですが 
このせっかくの「主題」がベルばら故にオスカルの死という形でねじ曲がった?という感じがします。

この物語の流れでは自然に流れていくとバスティーユ後もそれなりに地味に生き続けるであろう二人が、いきなりベルばらという枠に引き戻され、同時にそれまでのアニメ独自の物語の流れも強引に変えられ不自然な死に至った・・・のでは??
「ベルばらだから当然の結果」が納得行かない。
そういう感じです。
アニメを語る人たちの間では「バスティーユでのオスカルの死が不自然」という説がありますが、私もこの説は支持しています・・・って大げさな事みたいですが・・・。
・・・とまあやはりここでは原作のオスカルの死については別物として触れずに置いておきますが・・・あくまでアニメのオスカルの場合です。 

確かに、視聴者を無視して自分の世界の中を語っていたドラマだからこそ臨場感があったのかも知れませんネ。
そう思えばあのオスカルの寡黙な態度はアニメの制作者として正解だったのかも。それこそ思うつぼ??

■人の心の、きれいな部分を抽出して・・・もーみん談
もーみん・・多分、原作ファンにとってアニメは無視できない存在になっているんじゃないでしょうか。とるに足りない作品であれば、鼻で笑って済ますことができますが、アニメは、(特に海外で?)評価も高いようですし、原作を差し置いて(?)アニメについて語られたりするのは、原作ファンとしては堪えられないのかもしれないですね。

自分の世界が大切なのは、私も人のことは言えないです。アニメベルばらは、私にとっては、幼い頃からの大切な宝物みたいなもので、大人になってから例えどんなにつまらないものだと分かったとしても、きっと捨てられなかったと思います(幸いにも、そうはなりませんでしたが)。
好きなものを、一番美しい時のままにしておきたい、という気持ちはあるかもしれませんね。頑な原作ファンの人が、そうなのかわかりませんが、出会った時の衝撃が強い程、その時の想いが深い程、意固地になるのかもしれない。
もう、信仰に近いものなのかも?

私は、多分、好きなものを信仰できる程熱くはなれないし、好きだったものを理性で嫌いになれる程強くもないんです。中途半端で時々嫌になるんですが、いろいろ苦しみながら好きでいるんだろうな、きっと。
アニメベルばらに関しては、感情と理性が両立したとても幸運な例でした。掘り下げるとそれだけいろいろなものが出てくるっていうのは、充実感があります。

> 同時に それまでのアニメ独自の物語の流れも強引に変えられ不自然な死に至った・・・のでは??

そうですね・・・言われてみて、なるほど、という感じです。今までそういうふうに考えたことはなかったんですが。原作ものの難しさでしょうか。
人間ってけっこう簡単に死んでしまうものだ、と心のどこかで思っているのですが(職業柄かも)、現実はともかくドラマの中でくらいは、意味のない死は見たくないものです。そんなわけで、アニメの中とかで無意味な死の描写があると、怒り狂うのですが(笑)、アニメベルばらに関しては、実はそうならなかったんです。なんでか、と言われると、ちょっと言葉につまるんですが・・。ドラマとしてでなく、現実として受け取っていたのかもしれないですね。うーん・・・。

改めてビデオを観ると、予告を含めてナレーションにかなりの制作側の意思表示が含まれていたんだな、と感じます。32話※のラストのナレーションなんて、今聞くと心が潰れるようです。こんなところに伏線が・・(爆涙)

そういえば、放映当時はこれを聞いて、あまりにもオスカルの視点が身近なところに向けられていることに違和感を感じたものです。子供心に、彼女はもっと大きなものを目指していてほしいと思っていたような・・(原作も読んでましたし)。となると、やはりアニメオスカルの寡黙さは正解なのかもしれませんね。あれを、彼女自身に言わせてしまったら、もうそれは「オスカル」ではないような気がするので。
原作とのぎりぎりの接点を模索した結果なんでしょうか。
原作ものって本当に難しい、つくづく思います。

> あんないい人たちのようには生きられない。

本当ですね。人の心の、きれいな部分を抽出して見せてくれた気がします。
彼らを見ていると、日常の中で漠然と感じていたことに確信が持てるんです。
接する人に、「彼らの心(の一部分)」を感じることが、確かにあるので。
私自身はつまんない人間なんですが、そんな心を感じ取れてよかったなぁ、としみじみ思います。

※32話「嵐のプレリュード」

■対談その2へ続く

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