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アニメなベルばら対談 その2

もーみんさんとの対談の後半です。
話はどんどんディープになり佳境へ!!

対談期間1999.9.26.〜1999.12.29.


■対談のスタート■

■視聴者に一杯宿題を残して終わった物語・・・なーかる談
なーかる・・そういえば「オスカルの死が不自然」と、以前話をしていたときは何か納得していたんですがちょっと思い起こせない・・・

アニメのオスカルの死の意味・・・そんなことを考えているとまた頭がコンランしそうなんですがひとつの仮説として聞き流して下さい。

なんとなくバスティーユで死んでしまうのは不自然だなぁという話はアニメベルばらオタクの大先輩にあたる方の談なんですが、私もそうだなぁと思いました。

自分の病気、親友・もしくは忠誠を誓った女王アントワネットとの別れ、家族との決別、夫の死、指揮官の責任。
物語の佳境で これでもかという苦難を重ねてそれで最後に死んでしまうかぁー??という「ドラマを見ているものとしての立場」から言うと、彼女の行為が報われなかった最終回は脱力してしまいます。

きっと「恋愛物のお話」として幸せになって欲しかったという願望でしょう。
それにオスカルは無理矢理死ななくても、彼女の存在価値は生き続けていても発揮できたのにという悔しさ。
この辺がオスカルはわざわざバスティーユで死ななければならなかったのかという疑問です。ここまで原作と違うのなら、結末が変わってもおかしくないだろうという開き直り?かも。

原作を見ていたときは、バスティーユでオスカルが死んでしまうことも「アンドレが迎えに来ている」という一言で、素直に納得してしまった部分があります(私って単純)。
心中的要素があるという分析を読んだことがありますが、それについては色々と意見が分かれるでしょうが、ここではひとまずおいといて、オスカルは死んでもアンドレと一緒という事が安心材料でした。

原作オスカルの「死」は、女性が社会の中で生きていく上で捨てていかなければならなかったもの・・・という難しい論理もあるらしく、原作オスカルの死を認めたくない、認めてはいけない、と言う方もいらっしゃるのではないでしょうか。
アニメについては「オスカルとアンドレの二人が幸せに暮らす死後の世界」というものを想像する余地がありませんでした。
それを匂わせるセリフもなかったし、死は完全にその人の人生の終わりという現実を見たような気がしました。

元々 私が「死にネタ」の物語があまり好きでないのも原因があると思います。
誰かが「死んで」感動する話より、誰かが「生きて」感動する話の方が見終わった後の気分が違うので・・・。

もしかしたら制作者サイドは原作通りという考えの枠で彼女を死なせたのかも知れない(もしそうなら完全に不自然な死)、その考えから行くと彼女の死はあんまし短絡的すぎると怒りも湧いてきそうですが、それだけじゃなさそうなんですよね・・・

 彼女の死が訴えたものはやはり現実の厳しさだと思います。
どんなに苦労してもどんなに人に尽くしても、あっけなく死は訪れるものだなぁ、という事。
それと彼女が死んだことで、視聴者である私が彼女との時間を共有できなくなり、逆に、私が何を失ったかを深く考えさせらるきっかけになったことかも知れません。

あのバスティーユというのはオスカルの不幸せのどん底も底。
一番 弱っているときに戦闘の指揮をさせて踏ん張らせて、あげくに死なせて「そこまでするか」と言う感情が湧いてくるのが人情。
その人情で、彼女の死は(不自然で)納得できないと言いながら、実は彼女を失ったからこそ、彼女の存在価値とは何かを考え、はじめてわかる事実に教えられ、ぐうの音が出ない、という所でしょうか。

アニメのベルばらは視聴者に一杯宿題を残して終わった物語かも知れないです。
だから答えが出るまでは、下手に泣けず怒れず喜べず、答えが出たからと言って素直に喜べず、泣くに泣けず・・・という感じです。

認めたくないですが上記のように考えていくとオスカルの死には意味があったという事なのでしょう。
ただあんなに非現実的なまでの苦難を強いられたオスカルの死があまりに現実的すぎたので(あまりに理不尽)、バスティーユで死なせたくなかったというのが、心のわだかまりとしてあります。・・・「不自然な死」を納得できないのに、認めざるを得ない??

そういえばアニメのアンドレの死も「犬死に」説があるそうですがあれも無名の敵兵士と同時に絶命しているから、「主人公と言えど命の価値は誰でも同等」という教訓だと思っています。

予告編は「そこまで言っていいのか・・・」という感じです。
本編では大事なテーマは言葉で説明してないのに、予告編では意外と語ってあるみたいで、なるほどと思ったり「ほんとそのまま信じていいの?」と思ったりしています。
あえて予告より深読みしてみるのも楽しいし・・・。

ついでに比較的平和な回を見ていたんですがこの二人が死んでしまう・・・と思ったら悲しくなって、三部会の前でストップしてしまいそうです。
どちらかというと、ドラマ編のCDを聞いている方が多いです。絵が無い分、ダメージも少ないし??
■彼女の死に納得がいっているわけではない・・・もーみん談
もーみん・・人の死については、前回、何かちょっと分かったようなことを書いてしまって恥ずかしく思っています。
私自身は、現実の人の死について、何かを語れる立場ではないし、そんな権利もないんです。一応、医療従事者ではあるのですが、人の生死の最前線にいるわけではなく、ちょっと退いたところから関わっている人間です。むしろ、この件に関しては、自分自身の身近な人の死と重ね合わせてしまったようです。
「人は簡単に死んでしまうものだ」と思うのは、「人の死によって自分が傷つくのが怖い」気持ちの裏返しのように思います。
強がって、自分の心をガードしていたんですね。
まだまだ未熟者、精進せえや、私(滝汗)。

話が、ベルばらからかなりそれてしまいました。
オスカルの死については、いろいろ考えをめぐらせました。
私は、ほとんどアニメベルばらについて他の方と話したことがないので、考え方はけっこう片寄ってしまっているかな、と思います。

アニメの最終回を観ての喪失感、というのは、私も確かに感じたもので、一体これをどう処理したらいいのか、むねにポッカリあいた穴を何で埋めればいいのかわからず、ただ呆然とテレビの前に座り込んでいました。
今も、それほど考えがまとまっているわけではないんですがむしろ、いろんな方の意見を聞いてみたいと思ったりしています。
例えば、もし物語が強引に変えられたのだとしたら、どこ辺りから、とか、きっと、皆さんいろいろな意見をお持ちなのでは?
そんなふうな派生の仕方も、けっこう面白いかもしれないですね。
でも、楽しく語るには、ヘビーな内容かな?

私自身も、彼女の死に納得がいっているわけではないんです。
幸せになってほしかった、できることならアンドレと一緒に。
でも、時々思うんです。
彼女は充分幸せだったのではないか、と。
いろんなことに苦しんで、大変な一生だったけど、苦しんだ分、決して多くの人が得られるものではない、大切なものの存在をしっかりと感じ、受け止めたのではないか、と。

わたしは、それこそが「人とのかかわり」だと思っています。
そして、当然その筆頭にくるアンドレの存在だと。
アンドレの最期の言葉の後の、オスカルのセリフがとても心に残っているんです。
「二人で、生まれてきて、出会って、そして生きて、本当に良かった」
というのは、彼女のあの時の心の底からの言葉だったんじゃないかな、と思います。それは、未来に向けた「これから得られるはずだった幸せ」への願望というよりは、「今まで生きてきた時間の幸せ」を確認するためのものだったのでは、と感じるのです。

たとえ、ほんの短い間でも、心の底から幸せを感じることができたのなら、彼女の壮絶な一生も少しは報われるかもしれない、いや、そうあって欲しいという私の願望にすぎないのかもしれませんが。

あくまで私見なんですが、オスカルの死そのものの描写には、むしろ制作側の誠意を感じました。
冷静に、感情を交えず、カメラが彼女を追うことで、かえって彼女の死をずしりと心に受け止めたように思います。
そして、多分 一番現実を感じたのは、彼女の死後、彼女の姿が画面から完全に消えてしまったためでした。
残された人たちの口にその名前がのぼることこそあれ、彼女の姿は、回想はおろか、幻でさえ、現れない。
あまりに潔く、淡々と物語が終わったことについては、よくぞ、ここまで描ききってくれた、とむしろ拍手を送りたくなるほどです。
ここまできて、お涙ちょうだいになっていたらわんわん泣きながらも、怒りまくっていたろうな、きっと。

反面、最終回が終わった時、泣くことさえできなかったことへの苛立ちがあるのも事実です。
アンドレが死んだ時は、オスカルに同調して泣きまくったんですが、オスカルの死には、追悼の絵でひとしきり泣いた後は、誰にも同調できず(させてもらえず)、発散する手立てのないまま、ラストを迎えた、という感じでした。
理性でたとえ納得しても、感情が許さない、そんな感覚に今も苦しみ続けています。

そういえば、しばらくアニメベルばらから離れていたのも、観たり考えたりすることでけっこう自分が消耗してしまうからだったと思います。
観ること自体、結構な集中力がいるし(それだけのことはありますが)、考えはじめるときりがない。
自分が元気な時、心に余裕がある時にはいいんですが、疲れている時、他からパワーをもらいたい時にはとてもとても荷が重いです。
原作は、読んで元気になる部分も多いように思います。
原作のオスカルにパワーをもらっている人は本当にたくさんいるのではないでしょうか。
原作の支持が揺るぎないのは、きっとそんなところにも理由があるのでしょうね。

最近、英日翻訳ソフトというのを買いまして、海外のベルばらサイトを読みまくっています。
フランス語や、イタリア語も翻訳サイトで一度英語にしてから無理やり英日翻訳にかけて日本語にして読んだりしていますが、その中のどこかで、「原作とアニメは相補的」という解釈がありました。
海外ではアニメが主流なのでそういう考え方も可能なのかな、と思いつつ、二つのベルばらが対等に語られているようで、嬉しくもあり、うらやましくもあり、といった感じです。

ちなみに、キャストが変わった映画版(90分総集編)は、観てないんです。レンタルででも一度観てみようかな、とは思っているんですが。いろいろうわさを聞きすぎたんで、ちょっと怖い気がします。
アニメのオスカルの声については、田島令子さんで良かったと思っています。
アニメオスカルの聡明さは田島さんの声に負うところが大きいと思うんです。
原作のオスカルは、読んでいて、また違う声でイメージします。
ちょっと不思議な感じですが、やっぱり別人だと思うのでこれでいいのかな(お気楽)。

■平和な部分でオスカルの時間を止めて・・・なーかる談
なーかる・・いやぁー、色々と深く考えさせられる程の内容を毎度いただき、こちらこそ恐縮です。
人と対話すると 思いがけない事がわかってきたりしていつも感動の嵐です。

アニメのベルばら・・・制作者の方々がそこまでふかーく意図を持って作られたかどうか知る由もないですが、なんか生きているうちにつっこまれたくない部分に触れている作品のような気がして私も見るにはかなり体力と精神力がいります・・・と言えば大げさかも知れませんが。

なにを隠そう、私が今回、大人になってからアニメにはまったのは映画版90分を見たからなんです。
たまたま放映していたのを「懐かしいから今なら面白いかも・・・」と軽い気持ちで見てからはまってしまい、ついでに姉まで巻き込みテレビ版で決定的にはまったんですが・・・。

しばらく経ってからです、映画版の声が戸田恵子さんだと気がついたのは・・・。おはずかしい・・・
気がついてから映画版を見直すと、そういえば違和感を感じました。(これを見て、はまったはずなのに)戸田さん自身の声は好きですし、なんていうか、悪くはないんですがオスカルが少年ぽいんです。アンドレは甘過ぎ??
涼しげで知性と色気があって、という田島さんの声が一度定着してしまうと、「・・・」という感じです。

声優さんはみんな好きな方ばかりなんですが、一度身に付いた観念というものなのか、本当に不思議。
原作が好きな方ならオスカルに色気はいらんという感じだろうし戸田さんの方を支持されているようですが、違いを楽しむ程度で見てみたら面白いと思います。

重い話をかるく語るのはいけないかも知れませんが(私も反省・・・)とりあえず、物語の中の死と現実の死を分けて見た方かいいのかも知れません。(だけど物語の中の死なのにこの重さったら??)

いゃあー、私よりもーみんさんの方が現実の死について色々と知識もおありだろうし説得力もあると思います・・・

私も身内の死の現場しか知りませんが人間は簡単に死んでしまうと思います。
それとまったく正反対に人間はなかなか簡単に死なないとも思います。

結局、自分がそのどちらかがわからないから不安なんだろうなぁーと。
煩悩まみれの私はきっと弱くてもろいから何かと強がって生きているだけかも知れません。

もーみんさんのおさらいを言ってるみたいで恐縮なんですが私もアニメで オスカルの死の場面には「原作のように激しく、彼女を愛する人たちに見送られ」なくて、寂しくてひっそりとしていたにも関わらず尊厳があったと思っています。(ファンの思いこみかも)

結局彼女の最期を看取ったのがロザリーとベルナールだけでひっそりしていたとしてもそれって彼女の意志だったと思います。
アランがあの場を去って砲撃に転じたのも、自分が何を今しなくてはならないかオスカルが彼らに指示したんだろうなと。

で、彼女が死んでしまって二度と指示を聞くことができなくなって・・・その後の物語の流れがオスカルを過去に置き去りにして進んで行くにつれよけいそれが寂しさを募らせて行ったのかも。

ちょっと軽い話に戻りますがそのときの「いらだち」って多分、誰も感じていると思うんです。
そういう気持ちを自分の理解できる範囲で表現(消化)するのでしょうが、寂しすぎるラストに怒りを感じるという話を聞いたことがあります。
いらだちを自分の中に取り込んで悶々とする人もあれば、原因を他に求めて(アニメの制作者への怒り)解決をする人もあるんだと思いました。

私もアニメを見るときは力がいります。
体力ないと見れないのに、ファンしているのも不思議ですが同人とかで活動(原稿描き)するとしたら三部会までの比較的平和な部分でオスカルの時間を止めて、楽しい部分だけ描くと思います。
その後の顛末から逃げているのかも知れないですが、ラストはあまりにテーマが重くて、お気楽に描けるとは思えません。

とにかくラストを見た後、オスカルはそれでも原作みたいに悔いなく生きたんだいっ!!て、自分に納得させようとよく思います。

■人間って素晴らしいものだなあ・・・もーみん談
もーみん・・先日は、不幸の手紙のようなものを送りつけてしまって申し訳ありませんでした(大汗)。
おっしゃること全くその通りで、現実の死と、物語の中の死は、全く別の物として考えるべきだと私も思います。
いろいろ考えをめぐらせるうちにちょっと混乱してしまったようです。
かえってお気を使わせてしまって、すみませんでした。

そうですね・・・、物語の中の死、というのは、制作者に依存しているな、と思います。表現する側が、どんな死を身近で経験し、それによって何を感じたかということが、物語を観て伝わってくる気がします。
オスカルやアンドレの死が、こんなにも重いのは、物語を作る人たちが、真剣に現実の死と向き合ったということだと思うし、そのうえで、物語の中の人間の死に、真剣に取り組んだということなのかな、なんて思ったりしています。
ほんと、制作側がどういう考えで作ったかなんて、もはや、知る由もないんですけど。
でも、一視聴者として、この物語から何かを感じた、そのことは大切にしたいな、と思います。

アニメ批判をする人の気持ちもわからないではないです。
自分の周りの現実で手一杯なのに、なんで、物語でまで、こんなにいろいろ考えたりせにゃならんのじゃ〜とか、やけっぱちになることもありますもん。
アニメは娯楽作品、と考えるなら、アニメベルばらのラストは、ちょっと重すぎるかも。
ただ、その分、心に残る(残らざるを得ない?)作品になったのかもしれませんね。

とはいえ、本来は、物語としてそれほど構えて観なくてもいいんだろうな、と思います。
何も考えずに観て、何かを感じて、そして・・・、というのがいいのかなあ、とか。
これからアニメを見る人にはいろんなことに惑わされずに、観てほしいな、といちアニメファンとしては願っています。

なんのかんの言っても、やっぱりアニメベルばらが好きなのはオスカルの事が好きだからなんだろうなぁ。
好きだからこそ、失うことがこんなに苦しいのでしょうし。
どうして、また、いろいろ考えるところへ来てしまったのか、それは、失う苦しみと同じくらい彼女に元気づけられたからのような気がします。
人間って素晴らしいものだなあ、と彼女を見ていると感じるので(ちょっと恥ずかしいけど)もちろん、彼女のようには生きられないのだけれど、彼女の姿を、心の中に、お守りのように持っていてもいいですよね。

■「生きること」についても真剣・・・なーかる談
なーかる・・死についてお話していると 確かに重いですね・・・。
現実の社会の中で 疲れて帰ってきてるのにこんなおもーい話をわざわざするのは 私も恐縮ですが・・・。

物語の中とは言え、「死」のテーマは重いし暗いし避けたいっ、てとこなんですがちょっとここでも現実の事は切り離して考えてみたら、物語の中の死には「復活」とか「再生」の要素がいくらかあると思うんです。
仮想の死を体験することによって、自分の気持ちの中の何かが死んで、何かが生き返ってくるというような・・・偉そうなことは言えませんが。
確かアニメ化を聞いたとき、「オスカルが死なずに済む結末」をいくらか期待してたんですが結果的に彼女の死から色々と得るものがあったりして、考えさせられました。

死に対する制作者側の態度が真剣だからこそそれはもしかして「生きること」についても真剣だったのかなって。
(ちょっとばかし、オスカルもアンドレも真面目に生き過ぎたって感じしませんか??)
彼女の死で視聴者が落ち込んでしまい、それから先に進めないと、本当に重くて、見終わってからも悶々としそうな物語でしたが・・・。
物語の中の「死」って、つまり物語の中の「生」を語っているというのが実感として感じられるようになると、少し気が楽になるように思います。
曇り空が晴れて、目の前がぱぁーっと明るくなると言うのか、「生きていく」ひとつの道を描いた作品なのだろうなぁ、と考えれば肩から力が抜けていくって言うか、そんな感じです。

■やっぱりオスカルってきれいだなあ・・・もーみん
もーみん・・死については、私も軽く扱ってはいけない気がしてどうしても話す時は重くなりがちです。
でも、だからといって物語全体を必要以上に重く捉えるのももったいないというか、作品に対して失礼かもしれないですね。

確かに、物語の中の死は、作る側にも観る側にも一区切りだと思います。
アニメベルばらについては、なーかるさんのおっしゃるように、制作スタッフは、オスカルとアンドレの生きざまを描ききってくれたな、と感じます。
彼らの死に到るまでの生を、真剣に物語の中で完全燃焼させてくれた、というか。
それだけに、きちんと制作側として「完結」したものを、観ている側に手渡されたという感じがして、「ぞんざいには扱えないな」なんて思ったり。

彼らは、物語の中で死んでしまったけれど、私の心の中には、いまだに二人の姿がリアルに存在している・・・
これって、ある意味永遠なのかも?

また、ちょっと現実の話になって私も恐縮なんですが、ある意味、現実の死も細胞レベル、遺伝子レベルで考えると「復活」「再生」の一環であるともいえますね。
死ねば、土に還るわけだし、子孫を残していれば、遺伝子は受け継がれるので。
あるいは、途切れることのない輪廻の中の一点に過ぎないと言うこともできるかもしれない。
なんか宗教的ともとれますね。
私は、信仰を持たないので、あんまし偉そうなことは書けませんが。
ただ、科学的に考えても通用するのでは、と思いました。

化学とか生物をやってきた人間なので、どうも、そっち方向に思考がいきがちです。
思想とか、哲学とか、歴史とかにはまるっきりうといんで、もし、なにか勘違いしたことを書いてましたら、教えていただければ、嬉しいです。

ずいぶん脱線しちゃいました(汗)。
結局のところ、私は二人の死を、自分の中で、まだ昇華できていないのだと思います。
実は、昔はわざと放っておいたところもあるんです。
自分自身が許容しきれない事実を、いくら考えても消化不良を起こすばかりな気もしたので。

今は、色々考えられるようになっては来ましたが、結論が出るのかどうか、あんまり自信はありません。
でも、20年前よりは、12年前よりは、私も確実に変わっているので、もし、今だめだとしても、そのうちまた自分の中から違う見解が出てくるかな、なんて 割と楽観視しています。
これからも、いろんな経験を通して、考え方も変わっていくのだろうし、落ち込むことも、悩むことも、色々考えを巡らせることもきっと、全ての過程の一環になるんじゃないかな、とか。
それらを、糧として自分を大きくしていければいいなぁ。・・・なんて、のんきなだけかもしれないですが。

オスカルとアンドレが真面目に生き過ぎた、というのは実のところ、大いに思っています(笑)。
運が良かったから(?)いいけど、本当のところあの二人、何度、死んでもおかしくない目に「自分から」遭いにいっていることか・・・。
もうちょっと利己的でもイイのにぃ、と思ったことは幾度もあります。
他人のことを考えるなら、自分を大切に思ってくれてる「他人」の気持ちも考えろ、とか。

もし、彼らが実在の人物で、自分が彼らの身近の人間だったら、どんなことをしてでも生き延びて、子供の1人も残してほしいと思ったろうなあ。
人間の脳には、「たくましく」「うまく」「よく」生きるための部分がそれぞれあるそうですが、彼らは「たくましく」の部分がいささか弱かったかも。(あるいは、「よく」の部分が強すぎた?)
その分、理性的に生きられたということなのかもしれませんが。

こうして見ると、やっぱりオスカルってきれいだなあ、と今更ながら思います。
ドレス姿も大好きで(白が似合いますね〜ほんとに)、女性として育っていたら、こんな風に「伯爵夫人」だったのだろうな、と考えると、いろんな想像が広がりそうです。
個人的には、彼女の背中とうなじにドキドキしてしまいます。
って、なんか危ない人みたい(大汗)・・

12月というと、オスカルの誕生日がもうすぐですね。
クリスマスと同じ日なのは、なにか意味があるのでしょうか?(すみません、無知で)

■不条理を不条理のまま・・・なーかる談
なーかる・・輪廻と食物連鎖も似たような物なのでしょうか。
個体の死は地球の規模ではサイクルなんだろうなぁと、ぼんやり思います。

私もオスカルやアンドレの死を美化もできず納得もできず、という所です。
作られた物語にしては、いともはっきりと不条理を不条理のまま、どーんと描いていたなぁと思うばかりで、まぁそれが余計に感動させてやろうというヤラセではなかったのが今思えば良かったと思います。

他人を思うことで、自分の思いを貫くと言うことが不条理な結果を導くのなら、やはりこの世を生き抜くには相手を倒して勝ち残っていく果てしない戦いなのかも?とも
思ったりします。その中でそこそこ気の合う人と触れあって、ちまちまとした喜びを見つけていくのが平凡な人間像なのでしょうが真面目な人は融通が利かないって言うか、生まれた時代を間違ったというか、やっぱし不器用だったのかなぁ・・・。 

■なんかパンドラの箱の話のようですが・・・もーみん談
もーみん・・後半のオスカルは、剣を使っている時より、こういう書き物をしたりしている時の方が似合ってるなあと、個人的には思います。あ、馬に乗ってる姿も好きですね。
本放送時には、36話※のあのシーン、羽のくるるんが可愛いとかオスカルの顔が怖いとか、変なことばかり感じてたのを思い出しました(汗)。
あの時彼女は想像を絶するストレスに耐えていたのだな、と思うとめちゃめちゃ恥ずかしいです・・・。

夕日で思い出したのですが、アニメの映像の美しさ、というのは実はなーかるさんの解説を読んで、初めて気がついた部分が多いんです。
キャラクターの美しさはともかくとして、光の具合とか、風景とかあまり今まで気にしたことがなかったので。
どうしても、ドラマ的なことに気をとられがちだったんですが、それさえも、背景、作画を含めた映像あってのものだと今は思います。
もしかして、アニメの要素のどれか一つを取り出すと、とりたててスタッフの「代表作」というわけではないのかもしれないけど、全部の要素が混じりあって、「なんと表現すればいいのか解らないけど美味しい」ものになっているのかなあ、なんて思います。

オスカルの死については、不条理を不条理のまま描いていた、というなーかるさんの表現そのままだなあ、と思います。
それ以上の言葉が見つからないというか。
思えば、後半の彼女の「生きている姿」そのものが、ありのままで決めつけたところのないものだったように思います。
なんか前回のおさらいのようですけど(汗)。
だからこそ、物語なのにあれほどリアルに存在していてそして、リアルに死んでいったということなんでしょうか・・。

オスカルもアンドレも確かに不器用だったと思います。
でも、頭の片隅で「もっとうまく生きなきゃあ」と思っていながらも彼らに憧れてやまない私自身が確かに存在するんですよね。
それは私が、彼らほど真面目に生きる勇気も資質もない凡人だからかも知れません。
それゆえに、「人間にはこんな生き方もできるんだよ」と教えてもらった気もして、元気づけられることもあります。

ところで、相手を殺すまで(あるいは自分が死ぬまで)戦う、というのは人間特有の行動とも聞きます。動物の本能では、同種同士では生存競争はあっても殺しあいまではしないようになってるらしいんですが、そうすると、人間であるがゆえに残酷になれるってことなのかなぁ。
でもそれならば、人を思いやるのも人間にしかできないことだし、人間であるがゆえに優しくもなれるってことも言えるかもしれない。
人間は、愚かだけど希望もある、ってなんかパンドラの箱の話のようですが(笑)。
別に人間が特別だとも思わないんですが、食物の連鎖から外れている分なんか他にやるべきことがあるのかな、などと漠然と考えたりします。


※36話 合い言葉はサヨナラ
■不器用な生き方に何か感動した・・・なーかる
なーかる・・36話はあれって普通の女性主人公がする顔じゃないと思うほど怖かったですぅー。
ついでにくるるんの羽根ペン、私も好きなんです。
姉と話していたんですが、原作は「くるるん」となってないんですよ。
ご存じでしたか??って、つまらん無駄話ですが・・・。

あの画像処理というのが出崎さんのお得意とか聞いたことあるんですが登場人物のうるうるした瞳とかなんか男も女もみんな色気あると思いました。
アニメってストーリーと映像と音楽と色々な要素がバランスを崩していたら失速していたかも知れませんね、ホント。。

ドラマで描く生や死はお砂糖がかかっているというかどこかドラマチックに盛り上げている物なんでしょうがそれがないってことで彼らの死はショックでした。
死ぬことは美しくもないし花道でもない。 
多分、「オスカル様」と思われている方にとってはこれは彼女にふさわしくない死に方と判断されるんじゃないかと思います。

年末だからあんまし縁起の悪い話で締めくくるのは何なので、ちょっと話題を変えますが二人が不器用だったとしたら、反対に、器用に生きるってことはしたたかでたくましいのかも知れないけれど自己中心的で闘争的っていうんでしょうか?
世界の中ですばしこく勝ち抜いて生き残る・・・それはそれで良いんでしょうが全てがそうなると何だか殺伐としてしまいそうです。
二人の不器用な生き方に何か感動したのならやはりそこに何か大事な物か共感する物があったんだろうなと。

お互いに殺し合うことも文明が進歩することも全て人間が頭でっかちになっているからと言うのをどこかで聞いたんですが、言葉で先を考えすぎるとあまり良くないのかもしれません。
という私は石橋をたたいて落とすタイプですがーー。

私もとりわけ特定の宗教を信仰している訳じゃないんですが(学生の頃学科でキリスト教概論みたいなのはありましたが)人類が食物連鎖からはずれた分、地球のゴミになっていないかって環境問題のテレビとかを見るたびに考えます。

今はアニメのベルばらを最高傑作に仕立てるとかアニメのオスカルを神格化して取り上げるつもりもないのでどちらかと言えば作品を楽しみたいと思います。

そもそもこの作品を最初見たとき、感動してもあまりに難解で一人であれこれ考えるには 持て余し気味だったんですがこうやって色々とお話ししていくと私の方もだんだん謎解き感覚で輪郭がはっきりしてきたんじゃないかと嬉しく思っています。
 

今年はもーみんさんのお陰で色々とお話ができて楽しかったです。どうもお世話になりました。
来年もよろしくお願いします。           

以上:対談期間〜1999年12月まで
■対談その3へ続く

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