アニメ対談3
とりとん&オモテ2002年も語る!

オモテ・・ダグー大佐語らせてください!?(笑)アニメの彼・・好きだなぁ(*^_^*)
ダグー大佐って、オスカルの分身だったと思うのですよ!?
オスカルがもし男で、結婚していて(要するに家名を背中にしょってて)いい歳だったら?(横道それますが・・ダグー大佐っていくつくらいかなぁ?
40歳くらい?)やっぱ、ダグー大佐のようにしか生きられなかったと思うんです。
ダグー大佐だって感じてたはずですよ。中間管理職の悲哀を。
いっぺんくらい、上司に向かって「こんな会社とっととやめてやる〜!
おまえの顔なんかもう見たくないわい!!」って言ってみたいなぁ・・と思ってたはずですよ(苦笑)
ブイエ将軍にたてつくオスカルを、ココロのどこかでうらやましく思っていたんじゃないかなぁ。
ダグー大佐にとってオスカルは、自分が踏み出したくても踏み出せない世界に、羽ばたいていってしまったもう一人の自分だったのかな?
ということは・・ダグー大佐にとっては、オスカルの方が分身だった!?(^^;)

オスカル達の密談を聞いて、自分は今日一日無断で休暇を取るつもりだから、
報告は明日になる・・なんて、「報告しない」とは言わないあたりがニクイ!(笑)
原作の「もはや貴族以外の何者にもなれない」といった彼や、確かヅカばらではオスカル達と一緒に行動しちゃったダグー大佐もいたはず!
う〜ん、地味だけど、一粒でもぴりりと良く効く山椒のようなキャラですね。(爆笑)

さて、私が勢いで「従う」発言について語っちゃったので、そういえば・・蛍シーンを取り残して来たような気がするんですが・・?
でも、途中で中途半端に語っていたような気もするし・・重複してたら見なかった事にしてください!?

告白シーンの真っ最中にフェルゼンの事を持ち出した、オスカルに今更元彼(笑)のことを持ち出して、アンドレが気の毒ぅ〜と言う人もいるそうですが・・
アニメオスカルって、恋愛に対して、厳しいくらいの理想を持っていた人のようですね。
フェルゼンをして「私がこの世でたった一人、愛しても良いと思った人」なんて言ってたし・・そう言えば。
あの時代の、乱れに乱れきった男女関係を見てきたせいなのか、厳格で誠実そうな両親の影響なのか分からないけど。男女の愛に関しては相当高い理想を持っていたんだと思うんですよー。
たった一度の、告白すらしなかった恋に破れただけで、男として生きてやる〜!
と思い詰めてたほどですからね(苦笑)
確かに、アンドレには言う必要が無かった言葉だったのかもしれません。
フェルゼンを愛していた・・なんて。
でも、オスカルには言う必要があった言葉だったんでしょう。
言ってしまって、すっきりして、そこからアンドレとの絆を深めたかった。

なんか、アニメのオスカルって・・こうしてみると、白黒つけたがる人だったんですね(笑)
アンドレはアンドレで「分かっていたよ、生まれる前から・・」なんて、だったら悩むなよ〜とつっこみ入れられる様なこと言ってるし(苦笑)
でも、コレはですね。言い換えると「気にするなよ、俺はずっと信じていたよ」と言ってるんですよ。ホント、ホント(笑)

オスカルは言うんですよね。
「あなたがいれば私は生きられる・・生きていきたい!」と。
これを、か弱い女に成り下がったオスカルが、アンドレにすがって生きる・・と、解釈する人もいるそうですが・・
私は、アンドレに告白するまでのアニメオスカルは、自分の事はいつも後回し、国家や仲間のためなら生死もいとわず行動していた彼女が、アンドレとの未来のために、生きてみよう!生きたい!と、思った瞬間だったのだと感じて、心の中で快哉を叫んだものですが・・。

実際、アンドレの視力はほとんど無く、オスカルに至っては余命幾ばくもない状態で、どうして?というほどこのシーンの二人は穏やかでしたよね。
この後のアンドレ絶命シーンでも、そうだったんですが・・っとっと・・コレはもっと後でじっくり語りたいので、おいといて〜。
この蛍シーンのラストが、夜明けに、衛兵隊舎へと馬を駆る二人で・・
BGMは「優しさの贈り物」のラスト・・凄烈で、それでいてすっきり終わって、次回「運命の扉の前で」に続くんですが・・
その冒頭のシーンで、O&Aが馬を駆る同じシーンに、BGMは今度優しく切ない「愛の告白」(確か)なんですよねぇ。
思わず唸る、上手い描写です。


とりとん・・対談も年を越し、おいしいエピをいっぱい取りこぼしてここまできたように思いますが、行きつ戻りつしながらがんばりましょう!

ダグー大佐って律儀が服を着てるみたいですね。またセリフも渋い。
相手の感情を逆なでしないように言葉を選んで語るところなんてニクいです。
オスカルも律儀という点は同じかなぁ。告白でフェルゼンのことを持ち出したのはアンドレに対して、フェルゼンはアンドレを愛し始めるためのステップだったと言っているようなモノ……だと。
フェルゼンを想う過程があってこそアンドレと結ばれた、と、一視聴者として思ってます。
実際にフェルゼンとは何も関係はないままだったし、あの一方的な恋心って一体何だったの?という感じですが。

結局、アンドレに対しては誠実に接しておきたかったんじゃないかなぁ彼女。
私もあちこちで重複して書いてますが、オスカルは必要以上に人の荷物まで背負い込んでしまっていて、アンドレに愛されていることでやっと自分は独りではないって気づかされたと思うんですよ。
原作では二人の関係がはじめからずっと「持ちつ持たれつ」「つかず離れず」なので、かなり関係の描かれ方は違いますね。
アニメではオスカルが言っているように、フェルゼンに思いを寄せながら自分からあきらめた経験をアンドレに当てはめようとしたり、服を破られたことで、確かにアンドレの男の腕力に驚いたでしょうが、「私はアンドレの激情を受け止めることができない!」「人に寄りかかってしまうのが嫌だ」という恋愛に発展する事からの「逃げ」の姿勢(なんてウブ)を感じます。
そんな「人を信じることと、人に依存することは同じ」だと思っていたオスカルが彼によって変わったとしても、私はそれでいいなと思う。
やっぱり、絵を見ながら「ありがとう」って言っている場面ですかね〜!
それがアンドレの力だったんだし、彼女を気づかせたことで彼の想いも報われたと思うんです。

ここでもオスカルの馬がアンドレの後ろを走っているのが、けっこう問題になっていたそうですが、これを問題視する背景はやっぱし原作オスカルというキャラクターが男尊女卑表現を感知・発見するセンサーになっていることじゃないでしょうか。
だけど、自分を守ってくれる男の後ろにいるのも、女として一種の勝利なわけで、男が自ら進んで露払いさせてもらいまっせ〜って言ってくれてるのに、その行為を無駄にするのは悪いですしね。(^^)
問題なのは、自分がそうすると決めて、特定の男に従うのが悪いのではなくて、自分が従う意志もないのに、能力がなくてもただ相手が男だからというだけで慣習に従って女が折れなくちゃいけないという漠然とした社会への不満なんじゃないかなぁ。まぁ現実は、能力以上の地位に居座って、から威張りするのは男女を問わず居ますが…。
男尊女卑を考える時、まず鋭すぎるセンサーにかけてみて、少しでも引っかかったモノを再度吟味して、問題の有無を詳しくチェックしていくことも大事かなと。そういう点では原作オスカルについては、当時の少女に問題定義をする目を与えてくれたすごいキャラクターなんだなとあらためて感じさせられます。

ところで対談を読まれている皆さんも感じられているでしょうが、アニメのセリフ、すごく良いですね。あれ、大筋は誰が考えて、言い回しは誰が考えているのか作業内容はわからないですが、ちょっとした一言も言い回しですごく変わってくると思います。次回予告とかナレーションとか、時々??というのもありますが、ドラマ内容のセリフはレベルが高いと思います。
関係ないけど最近のアニメをよく知らないトウシローですが、女性の脚本って結構好きです。


オモテ・・アニメのセリフ回しというか、イントネーションというか・・好きなのいっぱい有りますよ〜!何度も言ってるかもしれないけど、中でも、オスカルがの「近衛」という時の発音好きですぅ!後ですね〜オスカルの敬語がキレイですね〜。
平民とかにも、きちんと対応するでしょう?「道をあけてください」とか?
アニメは声優さんが演じる事で、それぞれの特色がでるので、脚本家の期待した以上の、言葉の効果?が現れるんですね。

オスカルのセリフで一番好きなものってなんだろう?って、今急に思い巡らしてみたんですが・・私はアレかなぁ・・
ドイツ人騎兵隊率いるランベスク公に名前と階級と称号を尋ねられたとき、「名前はオスカル・フランソワ。階級と称号はない」と答えるところ。
地位も身分も家さえも捨てて、何のしがらみもない、まっさらなただの“オスカル”になったんだね、良かったね・・と思いましたよ。なぜか。

ベルナール達と合流した後のオスカル達の戦い方って、少ない人員で実践的で有効な戦い方でしたよね。
原作を読んでいると、バスティーユを落としただけで、革命が成功して、平民が勝利した様な感覚に陥るんですが・・
実は、バスティーユ陥落なんて、導火線に過ぎなくて、オスカル達は名も無き英雄どころか、捨て石?雪の最初のひとひら??
アニメオスカルほどの人なら、何もそんなものにならなくても、新しいフランスの礎を築き上げる、数少ない選ばれた人たちの中に入れただろうに・・と、ずっとずっと不思議だったんですが。
ここに来てやっとなんだか分かった気がします。
オスカルはそうしたかったんだと!?
ははは・・これじゃ全然誰かを納得させる答えになってないけど。
ただのオスカル・フランソワになって・・言ってみれば1から出直す時に、人はやっぱりやりたい事をやるものでしょう??
アニメオスカルは、決して自暴自棄になってなかったし、あの絶望的な状況の中で、どこからそんな根拠が湧いてでて来るのか不思議なくらい、運命の扉の向こう側にある、未来を信じてましたよねぇ。オスカルもアンドレも。

アンドレが撃たれた後、重傷の彼を守りながら鬼神のように敵陣を突破するオスカルが、「愛人の延命のために部下を盾にした」などと言われているそうですが(苦笑)
もともと、軍隊がごろごろいる場所を突破して、広場に戻るつもりだったんだし、アニメオスカルと衛兵隊員の間には、だいたい隊長と部下としてのつながりは無かったんだし!?(うわぉ〜^^;)
彼らは仲間なのであって、どっちが下でも上でもなかったんですから・・
オスカルの従う発言以降は。
私は、同じ仲間として、オスカル以外の隊員が、アンドレを救いたい!
と思った結果だったんじゃないかな?という気がしています。

銃弾の雨の中を、自分の愛する人のためだけに戦うオスカルが,このときほど、かっこよく美しく見えた事はない!
なぁ〜んて言ったら不謹慎ですかねぇ?(^^;)


とりとん・・オスカルの性格設定に田島さんのウェイトが大きいですね。
発音とか、ちょっとした間合いも、田島さんの知的な色気でくらくらっときそうです。
衛兵隊が寝返った後(正確にはオスカルが兵士たちの前で結婚宣言をした瞬間から)の彼らの関係って何だろうなと考えます。
大きな組織の一部だった彼らがあの時、組織を脱退した…。
アランが最後の方で、自分たちのことを仮称「元衛兵隊」と叫んでいましたが時代の流れのなかで、自分たちの意志のままに戦おうと集まった仲間になったと言うんでしょうかね〜。あのまとまり方は好きですよ。
目的がはっきりしているからかなぁ、まとまってるけど組織的でもない。
王室が民衆の声を武力で押さえ込もうとしたという事に対して、自分たちが盾になろうとした彼ら。
バスティーユの後で、彼らがどの程度まとまっていられたかはわからないし、各個人の考えでばらばらになったかも知れないけど、たぶん、バスティーユ攻撃がかなり危険な事になることはわかっていただろうし、これ限りというせっぱ詰まったものをみんな持っていたんでしようね。

アニメのオスカルを見ていると、王妃との別れの場面でのあの涙は王妃を裏切った事イコールが、バスティーユを落とす事ではなく、その後のことまでも覚悟していたと思いますよ。
だけど、オスカルに時間がない。自分にできることはほんの今だけ。
自分を武器にして徹底して戦うことだけ。
最後の方で「撃てアラン、撃つんだ。何をしている」って、最後まで徹底して攻撃の事だけを口にしていたのも、下手にお涙ちょうだいの感情物で無かったところが良いです。
「アデュウ」が人に聞き取れなかったとしたら、この「撃てアラン」が辞世の句なのですよね。なんか…すごく…壮絶ですね。

さっきの横道の続きなんですけどね、ダクー大佐とかみたいにオスカルにももし家庭があって子供とかがいたら、戦いの先頭に立ってただろうかなあって思うんですよ。
アントワネットについては、王家の権威と子供たちの未来のため!みたいな部分が大きいですし。(この辺の心理はアニメ版では省かれて、無いのですが)
もう1話でも長く時間が取れていたら、アントワネットの今までの無駄遣い以外に、彼女の嫁いできてからの気持ちの変化とか確固たるプライドとか苦労とか、子供たちへの愛情や期待みたいな部分が語られていたら、オスカルとの対比がもっと出せただろうにって思います。
アントワネット側から見た筋道って言うんでしょうかね〜。
オスカルには直接自分が守らなくてはならない人が居ない、一方のアントワネットには居る、みたいなのが。

でまぁ、アンドレは家族になったみたいなものだけど、お互いの意志でそうしようと決めたとして納得できても、子供だったら「お母ちゃん、行っちゃ嫌だ!」とか言うだろうし、彼女も直接守らなきゃいけない人がいたら、もっと守りの人生になっていたんじゃないかなーって。

そしてオスカルにしてもアントワネットにしても、その他の脇キャラにしても、自分の人生で何かを得ようとしたら、何かを捨てなきゃならない。
・・・自分が何を得るのか捨てるのか、それを選ぶのは自分自身なんだってことを。
私自身がそういう物にルーズでいい加減にしているから、よけい感動してしまうんですよね。
いや、ホントに横道でしたね。(^^;)


オモテ・・アントワネットの苦悩?確かにもっと見たかったですね。
原作ではオスカルの死後、一転アントワネットがヒロインに返り咲いたので?(笑)
後手ではあったけど、アントワネットの心理をかなり描写できてましたよね。
アニメではそこまで踏み込む時間がなかったから(前半でよけいな手間取ってたからなぁ・・)
なんだか中盤では、ただのわがままな女王様になってたのが気の毒でした(^^;)
ダグー大佐も、決して勇気がないわけでも、悪人な訳でもないんですよね。
守らなくてはいけない、沢山のモノがあったんでしょう。
奥さんは亡くなってたけど、子供とかね。

もっとも・・オスカルにだって家名があったわけだし、伝統がある名門とか言われる家では、その家の者は、みんなが共同で家名をしょっているものなんでしょう?
オスカルは、革命派が勢力を付けて、王党派が追いやられる事を予測していたんでしょうか?
でないと、バスティーユ後、もし王党派が盛り返していたら、ジャルジェ家は一族郎党抹殺されてますよー。力のある軍人家系の一族だったんですから、間違いなく。

オスカルには時間がなかった・・本人もそれをよく分かっていた、だから、荒療治だけど、残された時間の中で、自分が祖国のために出来る事をやった?
本当に、そこまで計算して革命派に与したのであれば、全く・・惜しい人物を亡くしたと言わなければなりませんね。

さて、惜しい人物を亡くしたと言えば?
オスカルの前にアンドレですが(笑)
私、マジで初めてアニメ全話を通してみたときもしかしてアンドレは助かるんじゃないかと思いましたよー(^^;)
ベルナール達の待つチュイルリー広場に戻ったときは、すでに戦闘が終わっていて、広場にいた人々が傷ついたアンドレのために、ベッドを用意し、医者が何人も治療のために名乗り出ていましたが・・
このシーンも原作と違うと言う事で、えらく不評を得ていましたっけ、そう言えば(^^;)
(ちなみに、ベッドはバリケードの中にあったものなんですよ〜、絶対に!)

原作の戦闘中の、せっぱ詰まった状況の中での、いかにもドラマチックだったアンドレ絶命シーンと比べて、貧相だったのがお気に召さなかったんでしょうねぇ(爆笑)
オモテはこのシーンを見るとある事を思い出すのですよ。
ほら、ニュースとかで良くあるでしょう?災害や事故にあった人を、大勢の人が、ほとんどボランティアで助け出そうとするシーン。
きっと、広場にいた人々は、それ以上誰も死なせたくなかったんだと思うんですよ。
それがアンドレだと分かっている人は一部で、ほとんどの人は、縁もゆかりも無い人たちだっただろうけど。もう目の前で、誰かが死ぬのを見たくなかった。
彼らは、普通に幸せに暮らすために、立ち上がった人たちだったんですから。

けど、アンドレは心臓を打ち抜かれていて、息をしているのも不思議な状態だと言うし(^^;)
原作と違って1発というのが、なんだか悔しいですよね!?
なにかほんのわずかな手違いで、アンドレは死ななくてはならないような気がして、諦めきれない気持ちにさせられます。
そういえば、ここでもオスカルがアンドレに結婚式を挙げて欲しいといったセリフに批判されてたっけ。
(言い方が女々しいとか、日陰の身の女が、男に認知を迫っているようだとか・・^^;)
私は、これは、ただ単に原作の「この戦闘が終わったら結婚式だ」といったセリフの踏襲だと思ってますが、アニメでは、アンドレに永遠の愛を誓った言葉にもなったんではないでしょうか?
貞操観念の希薄だったこの時代・・情は交わし合ったとはいえ、何か約束をしたわけでもない!?
アンドレを元気づけたくて?(笑)「神の前で誓おう」と言ったんだと思うんですけどね。

アニメではアンドレが目を開けたまま息を引き取りますよね。
自分の命よりも大事な人を残して逝かなくてはならなかった、アンドレの無念さが伝わるようでした。


とりとん・・かっこいい女の生き様が描かれているのがベルばらの魅力とも言えますしねぇ。
前半のデュ・バリー夫人ももっと良い描き方があったと思うんですよ。
境遇はジャンヌとそう変わりないし。
元気のいい女が多いですね。反面、ディアンヌとかシャルロットのように追いつめられてしまった女性もいましたが。
オルレアン公とかも王室をちょっと斜に構えて見ているって感じで、単なる王座狙いの悪党もいいですが、もっと人間関係が交錯していてもおもしろいですよね。

原作の何が一番優れているのかな?ってあれこれ考えたら、キャラクターの設定(ポジション)じゃないかなって最近思うんですよ。
今まではオスカルの存在に目がいっていたんですけれどね。
オスカルとはどういうキャラか?彼女の性格がべるばらで一番重要なポイント!という風に思いがちなんですが、彼女一人で物語が進んでいるわけではない。
権力の頂点に立っている人が居て、そのそばにいる人、利害関係にある人、部下、家族、民衆・・・。
巨大で崩壊寸前の秩序の中でいろんな立場の人たちが登場して、みんな自己主張してせめぎ合っている。
そういう単純明快でないものがごった煮になっているところがとてもいい。

反対にオスカルの設定は、彼女のポジションさえあれば、性格設定などは各人が自分の好きなように変更しても、おもしろいお話が作れそうなんですよ。
(そうなったらベルばらと呼べないパターンも出てきますが)
だから原作をベースにして、色んなテーマを盛り込んで話が作れる。
アニメ版もそうだし、同人誌のサイドもマイオスカル像を描くという点では同じではないでしょうか。
で、たまたまアニメ版で設定されたオスカルの設定が私のツボにはまったと言うだけなんです。そして今に至る・・と。

オスカルの反乱ですけどね・・・
私も大きな疑問なんですが、オスカルが出動拒否をしたときでさえ、ジャルジェ父がお偉方の出席している会議で責められていましたよね。
普通なら、オスカルがたとえ反逆して、撃たれて絶命したとはいえ、やはり将軍家の家名に傷をつけたことになるはずで・・・
いくらなんでも、あのバスティーユを落としたことに対しても、アントワネットがオスカルを許したんだろうかなぁ?と思うのですよ!!!
だけど原作を読み続けていたらその後、ジャルジェ父が牢獄のアントワネットを訪ねていたので、反逆の件はおとがめなしだったんだ・・ってホッとしたんですが?
(原作では父が責められる場面はなかったですが、多分責められてますよね)
アニメでは「許さんオスカルー」の後は父も一切出てこなかったので、ジャルジェ父は、ジャルジェ母同様、その後の消息は不明ということで。(^^;)

アンドレの死は、あれはあれでアニメなりでオリジナルで良かったと思いますよ。
もうあちこちで語ったけど、アンドレの死はやはり主人公の命とは?という問いかけ、いや・・テーマの訴えじゃないでしょうか。
あと、撃たれてバリケードに運ばれて死ぬまでのことはオモテさん同様なので以下同文とします。
まぁ確かに特別じゃないのかと言われたら確かに他のバタバタ死んだ兵士たちより丁寧に描かれていましたが、あれは主人公だから仕方ないでしょう。
アンドレが脇役なら、たとえバリケードに運ばれて必死の看護を受けても、3秒ほどのカットだっただろうし、オスカルの語りかけも当然省かれていただろうし。
ただ、その前に二人を追いかけてきたカメラアングルがずっとあったわけで(それも第一話から)、その結果としてあの場面は設定されてますよね。
主人公として、二人の愛し合った結末や物語のテーマというものを視聴者に語らなければならない役者として、あの場面は作られている・・それだけの話だと思います。

ひとつ、アンドレの伏線として前半の「お前のために命を捨てよう」というセリフが、原作ではその通りになったのが、アニメでは宙ぶらりんになった感もあるんですが、前半と後半の監督がちがうので、何とも言えません。
アニメはアンドレによって「命の重さ」という後半のテーマが描かれたので、私はこの伏線がどっかへ行ってしまっても気にならないんですが、つじつまをあわせるのなら、アンドレはいつかオスカルが弱者の盾になることを想定していたので、彼女のそばにいることを決めていたときから、自分の身を危険にさらすのを覚悟していた・・ってとこでしょうか。

原作のオスカルみたいに、前を見ながらさらりと言った「結婚式だ」も印象的ですが、アンドレに対してあれほど気配りしていたアニメのオスカルが、積極的に妻にすると誓ってほしいと訴える場面はこの人の気持ちをアンドレがこんなに開いていったんだなと・・と
しみじみ感じさせられました。どちらも女性からプロポーズしてますよね。
私も原作のセリフを受けていると思うなぁ。


以下は平成14年2月17日更新


オモテ・・なんか・・とりとんさんのお説を読んでてふと思ったんですが・・
まるでアニメオスカルって、扇の要のようですね。
様々なキャラクターの生き様をそれぞれに見せながら、でもきちんと一つの物語につなぎ止めているのは、オスカルの存在があってこそと思う。
その分原作ほどオスカルの存在感は際だって見えないけど、いつもかならず、ストーリィの底に流れる統一された思考みたいなもの?が感じられて、アニメ自体がまとまって見えるんですよね。

さて、実はオモテはここでもう一つ語っておきたい事があるんですよー。
死の間際のアンドレの、「死んでたまるか・・」と・・やっと、成就したオスカルとの愛と、新しい時代の夜明けを前にした、魂の叫びのような(叫びにはならなかったけど)セリフがあるんですが。
これを、アニメの彼は、オスカルをかばって死ななかったから、心おきなく死ねなかったんだとか、命惜しみをしてみっともない〜なんて言う考えがあるんだそうですよー。
同じように、オスカルは、悲壮な死を遂げたけど、それはゴールなのであってその先にはアンドレが待っているのだから、「よく頑張ったね、おめでとう!」と言ってあげたい・・という考えがあると知った時は、愕然としてしまいました。
O&Aが生き残るなんて考えた事もなくて、その後生活苦に陥ったり、子供なんか作って所帯じみた姿になるなんて、許し難い事なんだそうですよー。
これらを、人の命を軽んじる、背筋が寒くなるような思想だと思ったのはオモテだけでしょうか!?(-_-;)(-_-;)
それとも、マンガと現実を一緒くたにしている、私の方がどうかしているのかしら??

死がゴールになるのは、さんざん生きて老人になって、老衰かなんかで安らかに死ぬときだけです。30、40で死ぬなんて、自然の摂理に反している事で、救われる事なんてひとっつも無いはずです。
死んでから咲く花実なんて絶対あり得ないとオモテは信じています。
だから、O&Aが、絶望的な状況でも、最後の最後まで、生きる事を諦めなかったアニメは、そんなオモテに、思想的に一番合っているなぁ・・と感じたんですね。

命は・・例え自分の命でも、自分だけのモノじゃありません。
たとえば、自殺をする事は、自分の命を殺す事になるのです。
オスカルは、市民達に寝返って、万が一の時には、自分の命で相殺すればそれで良いと考えていた節がありますが・・
オスカル自身はそれで良いかもしれないけど、ジャルジェ両親や姉妹やばあやはどう感じたでしょう。オスカルを愛しいと思う気持ちが強かった人たちであればあるほど、その死の責任が自分にあるように感じたんじゃないでしょうか?

原作のオスカルは、自分がもし死んでも、その死に誇りを持ってくれ・・という様な伝言を父に託しましたよね。
けど!誇りがあろうが無かろうが、親にとって子供の死は受け入れがたいモノで、絶対見たくないモノのはずです。
アニメオスカルは、家名を汚す事を予測して・・このような娘だから諦めてくれ・・というような申し訳なさそうに書いた手紙を残していきますが・・
ジャルジェパパじゃないけど、そんなので納得できるか〜!
オモテも許しませ〜ん!?(>_<)
まったく・・どいつもこいつも親不孝な娘達で・・(T_T)

ベルばらに再び激ハマリしたとき、オモテはすでに二人の子供の母になっていて・・
そういう環境とか感情の変化が、ベルばらに対する考えも変えさせてしまったような気がします。
あらら〜〜なんか、横道それすぎて遭難しかけてますね、すいません(爆笑)


とりとん・・アニメ後半はアランが主人公?に見えなくもないんですが、やはり主人公はオスカルが担っていると思います。
アランは前半のオスカルの役目だったストーリーテラーを引き継いでいるのが一番の特徴であると。
確かに彼がストーリー展開の潤滑油だとは思うんですが、やはり主人公がオスカルだったと言うのは、彼女の死後、話は求心力を失ってしまったという所じゃないですか。
アランはラストまで出てきますが、ここでもストーリーテラーとしてオスカルとアンドレを追悼している。オスカルの死によって、物語のテーマを引き継ぐ者がいなくなり、ただ追悼するだけといった感があります。
彼の目から見た身近な人たちの生き様とは、もう語ることすらできないほど喉につっかえていたことを想像させます。
彼の鎮魂の想いは、失ってはいけない人を失ってしまった悔恨の想い。

時代の主役は私ではないと、花道を通らずに裏方へ回ったはずのオスカルの行為そのものが、この物語のテーマだったと言えませんか、いや、言っちゃおう。
だから寡黙なオスカルの死は、制作者のテーマを訴えることをまっとうした事になるのかも知れませんが、反対に死によってテーマを支える人物を永遠に失ってしまった喪失感を視聴者は味わってしまった。そんな気がします。
この辺が不条理に思えるんです。
ただし、オスカルが裏方でひっそり死ぬことが美しいと、制作者が言っているのではないですが、命とは?生きるとは?という延長線上に死が待っているという現実が淡々と描かれているんだろうなと、漠然と解釈しています。
アニベルのオスカルの死は、アンドレもそうなんですが、死ねば終わりみたいな感じがするんですよ。オスカルが先に死んだアンドレの元へ行くという感傷的な捉え方がしにくい。
原作とか宝塚の馬車とかの「アンドレが待っている」シーンでホッとするはずが、アニメでは無惨にも無い!!
オスカルという人の魂は、オスカルという生き方のしがらみを離れて行ってしまったという感じ。だけど一度きりの人生を生きることに一生懸命だったんだなとも感じるんです。
とまあ、確かに家族にしたら、そりゃあたまらないと思いますよ。
特にジャルジェ父ってオスカルを男として育てた責任者ですもんね。
その後悔は想像を絶するものがあります。

でもオスカルの亡霊は自分の人生はこれで良かったんだと父に告げる。
自分の背負う荷物を最終地点まで運びきった彼女は、今荷物を置いて飛んでいってしまった。
私たちはその荷物が重かったことや、運ぶ道が険しかったことに共感し、反面、荷物をとっとと放り出して逃げ出さなかった彼女の行動に「もうやめて」と半狂乱になりそうになる。
オスカル本人が喜びも悲しみも後悔も信じたものも全部ひっくるめて、できることは精一杯やった、自分を使いきったからこれでいいんだと思った事と、(いや、思ったと思いたい)
普段私たち現代人が使う「幸せ」とのギャップがありすぎて、ラストシーンが流れていった後で、あらためて「生きている」って何?と自問してしまうんですよ。
なんだか変なたとえになりましたが、今でもオスカルの幸せって?と考えると立ち止まって考えてしまいます。
ははは、やっぱし、マンガと現実を一緒くたにしている私が変なのね〜??(爆)

そうそう、私も脱線ついでに私も語ってしまおう!
もう7年ほど前になってしまいましたが、ちょうど私がアニメ版を見て爆ハマりしてしまい、長年のアニメファンだと伺っていたオモテさんと偶然知り合った頃の事なんですが、お互い、多分アニメが好きなんだろうなと思いつつ、語る言葉が見つからずたいしてコミュニケーションしていませんでしたっけね?
確かその頃はオスカルの享年と同じくらいで、ちょうど自分と彼女を重ねやすかったと思います。
学生の時にはあまり共感できなかったアニメのオスカル。
だけど再度見たときは私は社会人で会社の組織の中に居て、上と下の人間関係と仕事に挟まれて、マンガではない現実の人生を送っていて……
アニベルの世界とは時代が違うのに、訴えかけが深く私の心に食い込んでしまった。
確か、ハマった時は「しまった!」と思いましたっけ。
すぐに思いついたのは誰かハメてやろうとしたことですけどね。
そしたら簡単な仕掛けで姉が一気にはまってしまって、あれは痛快でした。
ビデオ屋のレンタルに行ったらアニベルのビデオが貸し出し中で、あきらめて帰ったら姉が「借りたんは私や〜」と勝ち誇ったように電話をよこしてきたり。
けどまさか、いい年をした自分がアニベルにこんな深い物を感じてハマり込んでしまったとは、非常に表現しにくいものでした。友達にも言えないし。

何かのはずみで、アニベルのラストは不条理で落ち込むんだけど、オスカルがすごくがんばっていることで心が温まる…
…みたいなことを恥かき覚悟でファックスしたんですよ。
そしたらオモテさんから間髪おかずに「そーそー、かゆいところに手が届く解釈だ」というふうなお返事が来たんですが、覚えてます?
あれからすぐに、これはどうやらお互いにアニベルで感じた虚無感が同じものらしいとわかったので、早速アニベルの「なぜ?」について語り始めたわけなんですが。
最初にぶつかった壁が、アニベルを語る言葉そのものが見つからなかったとでした。
オスカルがすごく無口。それで行動そのものに解説なし。
愕然としたのはどれもこれも言葉で語られてないんですよね。
だけどこの異常なハマり方は、メッセージ性があるからに違いない、それだけが頼りでした。
アニメ版の評価がファンの間で認められなかったのは、原作でのオスカルのメッセージが無くなり、空っぽになってしまったという部分が強いと思います。
「どうしてオスカルはバスティーユへ行ったのか?」という問いに答える言葉が
見つからなくて、ただ「流されて行っただけじゃん!」という一般的な解釈に対して「そうじゃない、実は…なんだ」と別なる解釈すら言えない始末。
「アニベルの深い泉の縁をのぞき込んだだけで、はまって溺れそうだ!」(名言)というオモテさんの言葉通り、アニベルを語る言葉を探す旅は
決して短くはなかったと思います。

オスカルというキャラが、特に原作ではカリスマ的存在として捉えられていることは充分考えられるし、私も原作オスカルをそういう「特別な人」という見方をしてきた事も確かです。
オスカルの人となりを語るなんて難しい!という意見もわかるし、人の行動を何でも言葉で説明できるのかどうかは疑問です。
だけどある程度、第三者と共通の想いを抱いているかどうか確かめるには、言葉がすごく力を持ってくると思うんですよ。
アニメを語るについても、全てを言葉で語れるかどうか自信はないですが、批判の言葉は剣になって刺さってくるし、愛情がある解釈は心の盾になる。
対談も一年続いてますが、言葉って本当に難しい、だけどパワーを含んでいるんだなと感じさせられます。

ははは・・私もたいがい道からそれて道草食ってますね。


オモテ・・いや〜なんかも〜この↑とりとんさんのパートは感動モノです。
今まで時間を掛けて、場所を作って、考えて書いて来たのは、この文章を読むためだったんだなぁ〜と感じたくらい。
アニメのストーリィを追いながらの対談は、もう後わずか、いろんな事を脱線しながら語ってきましたが、やっとここにたどり着いた〜って気がします。

アニメ最終話を見て、百姓になったアランを訪ねたベルナール(&ロザリー)が、「オスカルとアンドレの墓もアラスの丘に並んでたっている」と言ったときには、も〜奈落の底に突き落とされた気がしたモノです。
本当に・・あの二人は死んでしまったんだ〜と、確認作業をさせられたようで。
ガラスの馬車も迎えにこず、アンドレも待っていない、幸せな来世もない現実の死。まさか、たかがマンガアニメで、そんなものを突き付けられると思ってもないまま見ていたので、よけいショックが大きかったのだと思います。

たまたま、運のいい事にアニメが批判されていたので・・!?そう!!
今振り返ると、コレはとても運のいい事だったと思えてきました(^^;)
もし、アニメがほとんどの人に受け入れられていたら、オモテはオスカルを亡くしたショックを引きづったまま、こういう物語なんだから仕方がない・・と言う程度で自分を慰めていたと思います。
たーまたま、アニメが批判されていたので、何も報われないまま亡くなったオスカルが余計可哀想で、批判のタネを一つづつ解きほぐして来てみたら・・
実は救われたのは、自分自身だったという事に気づきました。

ただのマンガアニメのキャラクターであるオスカルに自我があるように思い、実際にそんな人物が生きていたような感覚に囚われるなんて・・スゴイ事ですよね?
原作だけを読んでいたときには、決して無かった考えです。
原作のオスカルが、何かを考えていた・・と、自分が想像するなんて畏れ多い事だ〜とさえ思っていましたモノ(笑)

このアニメ対談は、アニへ批判を覆す言葉を探す旅から、自分を納得させる旅になり、オスカルを探す旅・・に変わって来ていたんですね。
とはいえ、未だに私の中では、オスカルの人生って?
彼女は幸せだったのか?・・の問いの答えは出てません。
私はオスカルではないから、答えが出る訳もなく、ビデオを巻き戻すかアニメブックを開いて、生前の彼女の言動から・・きっとそうだったのよ・・と自分を納得させるだけ。
それに、今答えが見つかったような気がしても、何年かしたら、また変わるような気がするんですよ。
今の自分が、オスカル達とほぼ同年代としたら、オスカルの両親の歳やばあやの歳になったら、その時はまた違う考えが出てくるのではないかと。

さて、一気に締めに入ったような体勢になりましたが・・
大事なラストシーンを残してるじゃないの〜!?と言う声を、聞こえないフリでごまかし(^^;)
ここで脱線ついでに、アノ事を語ってみたいんですよ〜!
アニメベルばらが男性監督の手で捏造された〜と言われて久しいですが・・
本当に、男性監督だからこんなアニメになったのか?
ちょっと語ってみませんか??
実際、原作のはずせないストーリィの骨組みを残したまま、出崎さんは何をやりたかったのか。何をやったのか。
男ばっかりを語っては不公平なので、女性作者だから、こんな原作になったのではないか?などなど・・
関係者の目に触れたら、ヤバイんじゃないの〜?と言うところギリギリまで、この際だからやっちゃいましょう〜!!(笑)


とりとん・・あれは実に奈落の底です!確かにっ!
アニメでは天国での幸せという甘い部分すらもぎ取られてましたね。
夢見がちな少女だった頃の私がアニベルを脳内から消去したのは、実は従う発言より何より、この世からもあの世からも抹殺されたオスカルを認めたくなかったのカモ知れません。

アニメ批判については原作との比較が多かったと思いますが、それを濾過して残った物がかえってアニメを知る手がかりになったというのは私も同感です。
対談で語ってきたのは批判がどうのと言うことではなく、アニメオスカルがどう生きたのか、彼女の生きた意味を知りたかったからなんですね〜しみじみ。
はぁ・・わたしもオモテさんの言葉で肩の荷がすーっと下りた感じがします。

オスカルが本当に幸せだったかなんてこと、私もよくわかりません。
だけど本人がここにいてそれを聞いたら、きっと「幸せだったよ」と言いそうな気がするんですよ(はい、妄想モード入ってます)。
もちろん本心は知りませんよ。他人に愚痴を言う女性ではないので、いろんな気持ちを黙って墓場まで持っていってしまいそうだから。
だからよけいに知りたいんでしょうね本心を。ファンとして。
確かに今の気持ちは今後どう変わっていくかわかりませんが、今このときに思ったナットクが、こうやって記録に残ったのは私にとって成果になった事は間違い有りません。

カントクが男か女か〜?
ベルばらは女性でないと、演出が難しいという批評を聞いたことがあります。
原作オスカルの場合やはりファンが、ジェンダーと戦う戦士というイメージで見つめた部分が大きいと思うんですよ。だから彼女は男にも誰にも「従わない」し、人生の主人公は自分自身であることを読者(少女)に植え付けた功績があると思います。
女性の視点で見たジェンダーを語るには確かに女性が手がける方がきめ細やかにできるでしょうね。
では、オスカルがジェンダー戦士として描かれていない場合は?というと、どうしても女性が演出する必要は無いと思います。
実際大人になってアニメに再燃したとき、このアニベルは「男性が原作をねじ曲げて解釈した」という感じは受けなかったんです。
男の監督の意のままに動く人形ではなく、オスカル自身が生きているように錯覚しながら見たので、感じなかったんでしょうね。
他の作品で見るようなお芝居がかったワンパターンな女性の行動(例:情に流され味方の危機を招く、危険にさらされると泣いて無力になる、人質になる、先が読めず浅い考えでドジを踏む)みたいなものは無かったんじゃないですか。すごい女ばかりだった!
出崎さんの描き方って、お芝居がかったパターンを描くと言うより、人間が力一杯生きていることを表現してあるし、生きていくことは男女に関わらず共通していることなので、アニベルもそういうコンセプトだと思います。
アニメのオスカルは貴族という立場上、後半は押さえ気味に描かれていましたが、頭の切れる人、という印象です。男として育てられた女性という両性的な役柄を地に足がついた演技で演じきったと思っています。

アニベルを出崎さん(男)が描いたからこうなったとあえて言うなら、オスカルよりもむしろ男性陣です。
ルイ16世とかはかなり変わってましたよね。この人、実際は本当にアントワネットの心が自分に向いてないことを知ってトホホと思っただけなのかも知れませんが、アニメではフェルゼンに対抗している。男の意地が見え隠れしておもしろかったです。
登場人物はそれぞれあれど、みんな多かれ少なかれ自分のプライドを持って生きているという、これが出崎流なのかも知れません。
衛兵隊の兵士たちのあのむさ苦しさも現実的でした。だけど、みんな紳士に描かれていたと思いますよ。いいヤツばかりだったし。それと、彼らはオスカルが上司である事にそれなりに従っているんですよね。現実に逆らっていては給料がもらえないですしね。
以前、池田さんのコメントで24歳の女性に描ける範囲があると言われていましたが、確かに若い女性にあのような男のむさ苦しさを描けと言うのは酷だし、第一、少女マンガでは無理だったでしょう。

原作のアランはやんちゃで結構好きなキャラですが、ひとつだけわからない行動があります。
彼は自分の妹が上官に襲われて、貴族の上司に不信感を抱いたようですが、自分もオスカルを拉致して同じ事をしようとした。前の上司の事をきっとサイテーの男と思ったでしょうが、それは彼には言う資格は無いと思います。あのエピソードがはずされたことについて、それが男の監督だったからというのなら評価されるべきだと思います。

それと、恋愛にかけて男性陣は奥手ですね。あれ、少女マンガがベースだからという部分はあるにせよ、アンドレもフェルゼンも相手の女性を大事に思っている。そしてシャイ。
男性が描いたと意識して見るなら、それなりに彼らの気持ちを理解してあるんだろうなと、落ち着いて見ることができそうです。
アンドレはオスカルのブラウスを破ってからこっち、彼女を見守る立場に徹していましたが、彼女を恐怖にさらした事への誠意だろうし、フェルゼンがアントワネットの元を去ったのも、王室夫妻がはじめて家族としてまとまりかけたので割り込まずに去るのも誠意のあらわれでした。

アンドレはよほどひどいことをした自分に自己嫌悪を感じてのんだくれてましたが、あのとき、流しのオッチャンに愛し合うのは心と心だって諭されて気を取り直していましたね〜〜。
あれが出崎流の「アンドレがまんしろ」という表現だったのかな。
だからオスカル本人がアンドレに気持ちを許すまで、彼は黙っていようとしてたのかなってね、思うんですよ。男の我慢のしどころだったのかも知れません。
オスカルはアンドレの死後、自分の気持ちに気が付かなったことに後悔していましたが、それはアンドレが努めてオスカルのいい相棒で居ようと誠意を示したことなんだなと。
アニメの描かれ方としては、オスカルとアンドレの関係、フェルゼンの苦悩に重点が置いてあるので、アントワネットに関する表現が少ないと思います。
原作ではオスカルの死後、戦う女となったアントワネットの毅然とした態度が見所でしたね。
「男にならねば!」というセリフは、女性ならではの強く生きようという決意の言葉だと思います。
彼女も今なら今風の描き方が出きるので、これも演出が男性・女性に関係なく見てみたいです。

それと、男性ならこう描くだろうと言う私の勝手な偏見が入っているのですが、アニベルは男の演出らしく?ないなと思ったところもあります。
今まで対談でもこれだけアニベルは現実味をもって描かれていたと言ってきた割には、最後の最後でやはり、そうではないと思わせられるんですよ。
アンドレが男性の演出家によって「男らしく」描かれているのなら、バスティーユに行くというオスカルの意志を無視してでもあんな危険なところに決して彼女を行かせないと思います。
今までの距離のある二人ならともかく、夫婦になってオスカルはアンドレの意志に従うとまで思っているのなら、アンドレが「行くな」と言うことも充分あり得るはず。
と言うか私が男で監督なら、たとえアンドレが独り戦いに行ったとしても、オスカルには絶対行かせません!彼女を守りたいから!
ではなぜ、アンドレはオスカルを止めなかったのかという事になりますが、単に原作に描いてあったままオスカルとアンドレが一緒に戦う決意をしたのではないでしょう。
アニベルではこの二人の恋愛を最後まで淡々と、肉体的かつ現実的なものに描ききらずに、最後の最後で精神的な物に描いてみようとしたんじゃないかと思うんです。
男性監督と言ったら普通、派手なアクションだったり破壊的な面が目立ち、どうしても荒々しい男性の登場人物や肉体先行になりがちなのでは?とか、男の「思考」とはそういうものだという先入観を持ってしまいがちです。
だけど、オスカルとアンドレは後半、ストイックな関係に描かれている。この二人が共に同じ目的を持って戦ったことは現実よりも精神的な物を目指しているのでは?と思います。

まぁしかし、これを男性の監督ならではと言ってしまうと、女性にはできないのだという侮辱に聞こえるかも知れませんが、同時に出崎さんの個性を無視することでもあるんですよね。
正確には男だからではなく、出崎さんならではの演出なのだと思います。
原作も、池田さんが女だからベルばらの原作を描けたというより、池田さんだから描けたという個人の才能を優先したいです。
これでは結局、性別より個人の個性が一番だという結論を回りくどく言っただけのようですが、一般的に言うように、大胆かつ繊細な表現+より純粋な物を求める傾向は男性の方が強く、反対に、現実を見つめながら人の生き様や感情のひだを綿密に描くのは女性の方が得意なのかも知れません。

もうひとつ付け加えるとアニメでは、オスカルとアンドレの肉体的な関係(スキンシップ)を見たいというファンの期待が裏切られたという感情があると思っています。
又、二人の行き着く先=この世での最後のエッチだという期待(盛り上がり)があったにもかかわらず、アニメは二人の行き着く先が「共に生きよう」と言う抽象的な物だった。
惹かれ合う男女の過程を描こうとする制作側と、恋愛の結果を見たがる視聴者のギャップもあるかも知れません。
一般的に恋愛について「カラダ目当て」だと男性陣は非難されがちです。
でも実は精神的な物を大事にすると思われがちな女性の方が、物語を楽しむ上でものすごく現実的な部分を持っていて、惹かれ合う男と女の行き着く先が肉体の結合として描かれることを、より望んでいるのかも知れません。
だけど、不思議ですね。はじめから出崎さんが男性とわかっているから「男が作った」ということがわかっているんですが、今から思えば、もしアニベルの監督が性別不明のままなら、私にそれが男性か女性かだなんて区別がついていたのか疑問です。
ベルばらは女性でなければ描けないと当時私が思ったのは、やはりベルばら自体が「女性が描いたジェンダーへの戦いである」という固定観念と、一種若い少女にありがちな男性アレルギーだったのかなと思います。

そういえば二人はバスティーユへ行って当たり前だと読み流していましたが、なぜアンドレはオスカルを行かせたのか原作においても私にとっては謎なんですよ。




対談Cに続く!

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